青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

湯浅政明『夜は短し歩けよ乙女』

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『四畳半神話体系』における主人公は、自身のヒロインへの恋心になかなか気づかず、”もちぐま”という形で絶えず目の前にぶら下がっていた恋愛への好機になかなか手を伸ばさない。対して『夜は短し恋せよ乙女』の主人公は、明確にヒロインこと”黒髪の乙女”を恋のターゲットに定めており、ナカメ作戦(なるべく彼女の目にとまる)なる戦略を実行すべく絶えず走り回っている。『四畳半神話体系』が永遠に四畳半から抜け出せなくなってしまうというようなループを描く”静”の作品だとすると、今作はタイトルにあるように”歩くこと”で夜を永遠に拡張していく”動”の作品であると言えるだろう。作品のキーとなる『ラ・タ・タ・タム』という絵本は駆動する機関車のお話であり、その絵本を見つける古本市というのもまた、固定されずに移動を続ける形態を有している。移動する自宅である李白の三階建て電車、韋駄天コタツ、ゲリラ演劇と、今作におけるその”動性”は枚挙に暇がない。原作小説では四季にまたがっていた物語を、すべて一夜の出来事であった、という時間の流れを完全に無視したアクロバティックな改変を施しているのだが、それが素晴らしい。整合性を捨て去ってまで作った1本の道が、この作品の魅せるせわしない”移動”の残像をよりくっきりと映し出し、あらゆる事象を1つに結びつけ、数多の孤独を慰める。絶えず動き続けるこの作品のエモーションはアニメーションの快楽性や、エネルギッシュな若き心の様相と見事にマッチしているし、まさに期待どおりの青春活劇と言えるのだろう。


しかし、ほぼ同一のスタッフ陣によって制作された『四畳半神話体系』という前提を意識してしまうと、どうにも物足りないというのが本音だ。映画とテレビシリーズを並列に語ってみせるのはナンセンスだが、登場キャラクターでさえ二作の間を横断しているわけで、やはり比較は避けられまい。しかし、『夜は短し歩けよ乙女』に小津はいない。『四畳半神話体系』という作品においては、何はなくとも小津、と言えるほどに魅力的なキャラクターだ。これは痛手である。それはスタッフも承知のようで、古本市の神様というキャラクターを無理やり小津的なものに改変している(原作では美しい容姿の少年なのである)。そして、同じスタッフを集めたからといって同じことをやってもしょうがないだろう、というようなプロフェッショナル精神がもたらしたであろう”ズレ”が、作品をどこまでも野暮ったくしているように感じる。湯浅政明お得意のインナーワールドでの演出もキレがない。何より、あの凡庸なミュージカルシーンの数々をどう面白がればいいのだ(女装した学園祭事務局長との恋が当て馬に使われるという改変も、このご時世においてあまりに冴えない)。


実にありきたりな批判になってしまうのだが、『夜は短し歩けよ乙女』の星野源と『四畳半神話体系』の浅沼晋太郎では声優としての力量にあまりに差がありすぎやしないか。いわゆる森見調ともいうような、あの矢継ぎ早に繰り出される噛み応えのある古めかしく硬い文体を、『四畳半神話体系』において浅沼慎太郎は完璧なリズムと見事な発声で再現してみせ、それは作品のサウンドトラックであるかのように機能していた。対して星野源のそれは凡庸なコメディのようにしか機能していない。森見作品との相性と集客力というのを考えた時に、主演声優に星野源という選択が最良である事に何の異論もないのだが、それらを差し引いても星野源の声はやはりブスではないだろうか。いや、星野源を槍玉に挙げるのは間違えているかもしれない。そもそも、私は『夜は短し歩けよ乙女』という作品がそれほど好きではなかったのだ。作家の特色を水増しして薄めることで大衆性を獲得した作品、という印象が強い。実際に森見作品において断トツの100万部超えのセールスである。松本人志が『シネマ坊主』で書いていたように、北野武ファンで『HANA-BI』が1番好きな人は少ないし、サザンオールスターズの熱烈なファンに「TSUNAMI」を1番好きな曲に挙げる人はいないし、森見登美彦ファンで『夜は短し歩けよ乙女』をベストに選ぶ人は少ないのではないだろうか、と勝手に思っていたりする。何がそこまでそんなに好きではないかというと、端的に言ってしまえば、葛藤描写が少なく、最初から最後までファンタジックに浮足だっている点に尽きる。しかし、これはあくまでひねくれ者の戯言であって、『四畳半神話体系』が好きな人は間違いなく気に入る、というのが通説のようなので、ぜひ惑わされず、劇場に足を運んでみて欲しい。



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