青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

ロロ『いちごオレ飲みながらアイツのうわさ話した』

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われわれを分断するあらゆる差異。とりわけ学生時代においてそれは、暴力的なまでに、わたしたちを離れ離れにする。ロロ三浦直之が夢想してみせる学生生活では、そんな差異などあらかじめ存在しないかのような態度で、誰もが誰も無邪気に交じり合う。そのフィーリングは今シリーズを象徴する将門(亀島一徳)というキャラクターに象徴されている。将門は、どんな相手であろうと、気持ちがいいほどに分け隔てなく接する。崎陽軒のシュウマイ弁当を毎日食べているあいつ、休み時間に誰とも喋らないあいつ、昼間は学校に姿を現さない不登校のあの子、果ては幽霊まで!毎朝バスで一緒になる名前も知らない男の子を、”漫画を読むスピードが一緒”という理由だけで「好きかもしれない」と平気で言ってのける。そして、周りのみんなも、それがおかしい事だなんて絶対に言わない。その差異こそがチャームである、と言わんばかりにクラスターの壁を軽々乗り越え、混ざり合っていくのだ。そんな教室の風景は残念ながらまったくリアルなものではないのかもしれない。ファンタジーの世界、とすら言っていいだろう。しかし、だからこそ三浦直之は物語る。ファンタジーにまぶしながら、そういった世界でしか描けない“ほんとうのこと”を物語に忍ばせる。どうか届きますように、と。であるから、この「いつ高」シリーズは三浦直之の感傷に満ちたノスタルジーでは断じてない。若者たちに向けた美しい祈りのようなものであって、そのまなざしは100%未来を向いている。


前置きが長くなってしまった。劇団ロロが高校生に捧げる傑作シリーズ『いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三高等学校シリーズ』の待望の第4弾『いちごオレ飲みながらアイツのうわさ話した』が、これまた素晴らしい作品であったのであります。舞台上に登場する役者は3人。これまでで最も少ない。しかし、3人の女の子の止まることをしらないドーナッツトークはどこまでも賑やかで、物足りなさなど感じる暇などないだろう。そんな彼女たちの他愛ない”うわさ話”が、その真偽の不確かさが故に、どこまでも世界を拡張させていく。彼女たちのおしゃべりによって、ありえるかもしれない平行世界が次々に立ち上がっていく豊かさ。演劇という表現の醍醐味がいかんなく発揮されている。


前作『すれちがう、渡り廊下の距離って』に引き続き、ザ・ハイロウズの「青春」という楽曲が重要なモチーフとして登場している。

校庭の隅 ヒメリンゴの実
もぎって齧る ひどく酸っぱい

海荷と太郎が、この楽曲の歌詞を再現しようと、ありもしないヒメリンゴの実を校庭に立ち上げたという挿話はまさに演劇のメタファーである。そして、

夏の匂いと君の匂いが
まじりあったらドキドキするぜ

というライン。この”まじりあう”という感覚は、前述したようにクラスターが溶け合っていく「いつ高シリーズ」そのものを言い表しているようだ。であるから、今作のタイトルである”いちごオレ”も苺とミルクが見事にまざりあっている。今作の最初のイメージボートであり、劇中でも言及される山下敦弘リンダリンダリンダ』の、ザ・ブルーハーツも、ヒロトマーシーをして、ザ・ハイロウズとまざりあう。そして、何と言っても音がまじりあう。今作の舞台は周囲を校舎に囲まれた中庭である。放課後になれば、吹奏楽部の演奏、軽音部の練習、先生のお説教、汗ですべるバッシュのイルカのような歌声、そんな学校が鳴らす様々な音の断片は、中庭で人知れず混じり合い、共鳴するのだ。


青春を語る上で不可避であるのは、その”刹那”であろう。甲本ヒロトも歌っている。

冬におぼえた歌を忘れた
トーブの中 残った石油
ツララのように尖って光る
やがて溶けてく 激情のカス

時間が本当に もう本当に
止まればいいのにな
二人だけで 青空のベンチで
最高潮の時に

今作はその刹那に、シリーズ中において最も明確に言及してみせている。時の残酷なまでの不可逆性に抗うかのように、女の子たちは写真を撮り、男の子は短歌を作り、”今”を永久保存してみせるのだ。登場する短歌のおかしさ、瑞々しさも今作の大きな魅力だろう。そして、学校中の”裏側”に短歌を忍ばせる男の子の小さな革命、淡い恋心の混じったそのまなざしが、瑠璃色に届いてしまう。あの目には見えない視線の交差こそが、今作の紛れもないハイライト。ボーイ・ミーツ・ガールを描いてきた三浦直之の面目躍如である。そして、森本華が見事に体現してみせた素晴らしき”まなざし”の美しさをぜひとも目撃して欲しい。



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