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青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

かもめんたる『ノーアラームの眠り』

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かもめんたるは凄いぞ。第18回単独公演『ノーアラームの眠り』もまた最高傑作を更新するかのような完成度。全てのコントが高水準であったけども、中でもとりわけ気にいったのは「山菜狩り」「相談」「フードファイター」の3本。「山菜狩り」はかもめんたる的発想の美学が最も研ぎ澄まされた1本で、山菜狩りという地味なテーマからは想像もつかない場所に連れていってくれる。「相談」は突飛な発想を捨て去り、シンプルに”すれ違い”を突き詰めた意欲作。両者ともに正しいことしか言っていないのに、とことんズレていく会話劇。かもめんたるしか掘り下げない穴、というのがあって、その深度のレベルが桁違いであった。「フードファイター」は泣ける。とにかく泣ける。このコントに限らないのだけども、槇尾ユウスケの演技力がとてつもない領域に突入していて、”演じること”を離れ、ただただそこに役として”在る”かのような、凄いものを見せられてしまう。必見だ。


単独公演を重ねるごとに、笑いの純度をどんどん研ぎ澄ましながら、文学性のようなものもまた濃密になっている。『メマトイとユスリカ』(2013)という単独公演を観て、興奮のあまり「岩崎う大カート・ヴォネガットである」だなんての大言壮語をのたまってしまったわけですが、それはなんら間違いでなかった、と胸を張れる。”笑い”というフォーマットでSFベースの荒唐無稽な世界を作り上げ、そこに存在する歪で滑稽な全ての人々愛で包み込む。それはこの混沌とした現代の一面を描き切ってしまっているように思えるのだ。かもめんたるの単独公演では常に、”繫がりたいのに繋がれない人々”というが登場する。たとえば、姿はそっくりなのに別種である為に交尾のできない昆虫、人間とロボット、そしてこの『ノ―アラームの眠り』では、ショートスリーパー眠民、である。遠い未来、人々は1日15分眠るだけで大丈夫な”ショートスリーパー”、1日の大半を眠りに費やす(1日の活動時間は40分)”眠民”に分断される。眠民ショートスリーパーの発する眠気を吸収して眠り、ショートスリーパーは短い睡眠時間のよって活発的に経済を回し、眠民の生活を養う。やがて、ショートスリーパー眠民の間には畏怖の念、羨望、差別意識・・・といった様々な感情が表裏一体となりながら、接続不可となっていく。これが本公演を貫く核となるストーリーだ。映画や演劇が1本作れてしまう設定の練り込みである(その筆致には思わず手塚治虫星新一筒井康隆などを重ねてしまう)。


ショートスリーパー眠民が恋に落ちたとしたら、どうなるだろう?活動時間から価値観まで決定的にズレた二種間。わかり合えるはずのない2人は、徹底的にすれ違いながらも、なお懸命に繋がろうとする。その姿は、哀しくも、どこか可笑しい。そして、岩崎う大は、そんな交われない2人の為に、「せめて夢の中だけでも」とかすかな繫がりを用意する。そもそも、他人の眠気を吸い夢を見る、という設定が泣ける。そういった緩やかな連帯こそが、この現代を生き抜くかすかな希望だ。SFを駆使した壮大なスト―リ―の中においても、かもめんたるが描くのは、人と人が関わり合う時に発生する感情の機微だ。中にはひどい歪みや臭みを持つやりとりも多くある。しかし、それらすべてを笑いで包み込むことで、どんな感情も存在していいのだ、と肯定する。いや、感情に限らない。かもめんたるのコントは常に、あらゆる多様性の許容を訴求している。この意味においても、かもめんたるは現代最も重要なコント師と言える。そして、その活動は、坂元裕二木皿泉の書くテレビドラマ、もしくは、こだま『夫のちんぽが入らない』などと非常に近い場所に存在していることに改めて気付かされたのでした。



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