青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

ホセ・ルイス・ゲリン『ミューズ・アカデミー』

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台詞の詳細を追いかけようとすると、一部のインテリ層を除けばすぐに置いていかれてしまうだろう。ベアトリ―チェ、エロイーズetc・・・記号的にしか見聞きしたことのない創造のミューズ達を巡る教授と学生の文学的対話、或いはジェンダー論、芸術論。その矢継ぎ早な高尚さは、ダンテの『神曲』を1ページ目で挫折した経験がある者にはとうてい理解のスピードが追いつかない。しかし、そんな劣等感に似たこの映画へのノレなさは、サルデーニャ島のパートに突入するやいなや無化されることだろう。フィクションとドキュメンタリーでの揺らぎ、という点でもこのパートが今作の白眉である事は疑いようもない。そして、何と言って羊飼いの愛!音楽映画が言葉を超えていく。あの愛に倣い、垂れ流される難解な固有名詞を鼓膜から排除し、カメラに映し出される人々の感情の色合いに目を凝らしてみる。すると、高尚に思えたそれらは、どれも下世話な恋愛観の主張や性欲への隠れ蓑(もくしは屁理屈)でしかないように思える。神話がメロドラマへ降りてくる。ゲリンの神殺し、と言いたいところだが、そもそもあるゆる神話や文学の骨格がメロドラマ的である事は既に指摘されている。痴話喧嘩や三角関係というのは、いかにも下世話であるが、当の本人らにとっては、どれも”切実な”問題であって、その感情の機微は充分に目を見張るに値するものである。事実、女達の顔に徐々に灯っていく"熱"のようなものはどうだ。なんでも彼女らはプロの役者でも何でもないらしい。フィクションとノンフィクションを行き来する、という点においても本作はどこか濱口竜介の『ハッピー・アワー』と共鳴しているように思える。


と言うような見方をしてしまうわけだから、今作が美と創造を巡る優秀なコンテキストとなっているのかは判断がつかない。しかし、創造を刺激するミューズの存在については、ゲリンは明確な答えを画面に用意している。建物の窓や車のフロントグラスに映り込んだ女性達の像は、木々に、風に、或いはまた別の人々とに、混ざり合う。女性達が街に溶け込んでいく。すれ違う女性の断片、断片にロマンを落とし込んだ代表作『シルビアのいる街で』を思い出すでもなく、創造を来すような心の動揺というのは、街のあるゆる場所に、知られざるして潜んでいるのである。