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青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

石山さやか『サザンウィンドウ・サザンドア』

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団地やマンションの均等に並んだたくさんの窓の灯りを遠くから眺めていると、あの灯り1つ1つに自分は決して知り得ることのない無数のドラマがあるのだ、と密やかな興奮を覚える。というような事を何気なく女の子に話したら*1、「私はそれってゾッとするな」と返され、結局その子とは何もかもがうまくいかなかった。その途方のなさにゾッとするという感覚もわからなくはない。しかし、私はその途方もなさにこそ胸をときめかせてしまう。私があの窓の灯りの元に広がる暮らしを想像するように、別の誰かが私の住む部屋の窓を眺め、同じように想いを馳せているかもしれないではないか。そんな“ゆるやかな連帯”の可能性に賭けてみたい。と言うよりも、それこそが、誰かと完全にわかり合うなどとうてい不可能な我々の孤独を慰めてくれるたった1つの方法なのではないだろうか、とさえ思うのだ。


こんな感覚が見事に掬い取られている作品を紹介したい。イラストレーターとして活躍する*2石山さかやの商業漫画デビュー作『サザンウィンドウ・サザンドア』である。団地を舞台とした連作短編集。扉の数だけ生活がある。様々な人々が集う団地を舞台にするからには、世代などクラスターを超えた交流がいくつか描かれているが、作者は団地をそういったユートピアのような場所としては捉えていないように思う。だが、石山さやかが描く団地は、上に述べたような”人知れぬゆるやかな連帯”がある。それはたとえば、廊下に盛れる隣人のお風呂場の匂いのようなもの。その匂いを嗅いで「今日こそはオレも湯船に浸かろう」と思考すること。こういった誰にも知られることのない、目には見えないささやかな繫がりだ。


それぞれの人が、それぞれの場所で、同じ花火を見上げるという1話の「今年の花火」が端的にこういったフィーリングを見事にまとめあげているのだけども、単行本化の際にかきおろされたエピローグが更に凄い。”団地が水没する”という夢を、2人の登場人物が同時に見る。現実世界において顔も知らない青年と老人であるはずの2人は、何故か夢の中で同年代の子どもであり、互いに手を取り合い、同じボートに乗り込む。その2人は本編において絡み合っている描写は一切なく、この夢に至る因果律のようなものは見当たらない。しかし、同じ夢を観る。これは団地に住む人々のそれぞれの孤独が液状化して引き起こした洪水なのではないだろうか。目を覚ました青年はそれを「楽しい夢だった」とする。団地はユートピアではない。しかし、繫がりたいという”祈り”のようなものを託すにふさわしい器なのである。


「住宅都市整理公団」別棟 : 物語のインフラとしての団地・『サザンウィンドウ・サザンドア』がすばらしい
団地学の権威である大山顕が指摘するように、団地という舞台を選択しながらも、これまであらゆるポップカルチャーが作り上げてきた既存の団地イメージが希薄である点も興味深い。”団地妻”といった記号に託されていた閉塞感のようなものもないし、「昭和に取り残された」というような悲壮感もない、過去を慈しむようなノスタルジーさえも見受けられない。なんせ第1話にして、結婚1年目の新婚カップルが団地での生活を新しくスタートさせているのだ。未来を見据えた”今”しか、『サザンウィンドウ・サザンドア』の団地にはない。まったく新しい団地モノの誕生なのである。



話題作ですので、漫画読みは既にチェック済みと想われますが、個人的にはceroシャムキャッツの音楽を愛する人々にも手に取って欲しい1作だ。石山さかやの表現は2組のそれと、そう遠くない質感を湛えている。

My Lost City

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*1:学生の頃の話ですよ

*2:インディー音楽ファンにはMiles Apart RecordsやTHISTIME RECORDSのナイス過ぎるイラストでお馴染かもしれない