青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

坂元裕二『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』5話

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この5話をもって第1章が完結したわけですが、あまりに波乱と情報量の多い回で、思考回路はショート寸前。信じております、ミラクルロマンス。という事で、どうにも1つの文脈にはまとまりきらないので、今回もトピックごとに振り分けて書いていくスタイルで挑みたい。


<ひとりごとですけど 何か?>

静恵(ハ千草薫)の「ひとりごとですけど 何か?」に呼応して、音(有村架純)と練(高良健吾)が”ひとりごと”を重ねながら会話をしていくシーンはこれぞ坂元節である。「手紙は必ず届く」という坂元作品における信条のミクロな実践。手紙が投函されずとも届くように、言葉は矢印を向けなくても届いてしまう。個人的には、2人の会話のリズムに藤子・F・不二雄ドラえもん のび太魔界大冒険』でのドラえもんのび太の喧嘩を連想しました。
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意地になって口を利かない2人だが、やむをえなくなり「これはひとりごとだけど」という前置きで、言葉を交わしていく。まさに音と練そのものではないか。



<よく気付く人>

これまでやや影の薄かったAAA西島隆弘が存在感を示してきている。よく気付く人としての朝陽の造詣が良い。音の片想いの相手が練である事を察し、「ごぼうの切り方」を尋ねる事で音の視線を”練と木穂子”からそらしてあげるそのさりげなさ。芋煮会の修羅場から立ち去ろうとする晴太(坂口健太郎)を影の主犯者と見抜き、「どこ行くのー?」とにらみをきかす様も独特の声のトーン含め、とても良かった。5話において、朝陽と音が社用車を共に洗車し、それに同乗する。これは、引越屋さんのトラックに乗り合わせて始まった音と練の恋の反復(と差異)のようである。



<できるだけ遠回りに>

雛祭りのイラストのカレンダー、確定申告(申告時期は通常2/16~3/15である)、「会津帰るのって木曜?」という木穂子の問いかけ(あの3/11は忘れもしない、金曜日であったはずだ)、タクシー運転手の告げる坂上二郎の訃報etc・・・と直接言及を避けながら、”あの日”への外堀を埋めていく。福島で生活する練のじいちゃん(田中泯)が見上げる空に、鳥が群れで移動していという予兆に満ちたショットも挿入されている。「坂上二郎の命日が2011年の3/10」と記憶している人がどれくらいいるのだ、という疑問もないではないが、やはり坂元裕二のこういった固有名詞を用いたアクチャルな書き込みは抜群に巧い。老人ホームスタッフの錦織(にしきおり)さんが、5年の間に発生した錦織圭ブームで、2016年の現在にはすっかり「にしこりさん」と呼ばれるようになっている、なんてリアリティには感心してしまう。こういう時の流れの書き方もあるのだ。できるだけ遠回りをしながら、とにかく慎重に、坂元裕二が”あの日”について語る準備を整えている。



芋煮会

食べる場面はすごく好きで、よく書きますね。ドラマを観ていると道端とか公園で何もせずにしゃべるシーンがよくありますが、僕はとにかく公園が嫌い。ロケがしやすいというだけの場所でしゃべらせるのはやめてほしい。立ち話なんて人はしないし、立ち話なら立ち話でする話というのがあるし、公園で話すことって公園で話す内容のことだと思うんです。僕はとにかく、部屋にいたら料理しながらとか拭き掃除をしながらしゃべらせる。

これは是枝裕和の対談集『世界といまを考える 1』

世界といまを考える 1 (PHP文庫)

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における坂元裕二の発言なのだが、5話での芋煮会はまさにその実践だ。こんにゃくをちぎりながらの会話、という日常の所作のチョイスの豊かさ、座布団という何気ないアイテムで空間における人物の出し入れを操るなど、まさに本領発揮である。『問題のあるレストラン』(2015)は言うまでもなく、『それでも、生きてゆく』(2011)の定食屋、『最高の離婚』(2013)の4人で囲んだ鍋、など坂元作品において、人と人が向き合う食事シーンというのは非常に重要な言葉が語られる場である。今作においてもたこ焼きパーティーでの練の告白という最良のシーンが既に存在するわけだが、芋煮会における脚本の筆致の凄味には改めて驚かされた。向かう先を失った小夏(森川葵)の練への矢印が、叫び出す。

言ったら?好きなんだったら
好きですって言ったら?
「練好きよ、練。好きよ」って

この音への激しい詰問がそのまま、彼女の零れ落ちた想いである。こちらは、前述の「言葉は矢印を向けなくても届いてしまう」という法則が悪い方向に作用してしまった例だろう。そして、より凄まじいのは前半のパートだ。

このまま、ここ、ほっといていいの?

ちょっと一枚剥がしたら、ドロドロだべした

気付いてて 気付いてねぇふりしたんじゃねぇのかよ?
そういうの卑しくていやんだなぁ

野暮ったい方言がより言葉の鋭さを際立たせる。芋煮会のメンバーの暴露のはずなのだが、そのまま原発問題を抱えたこの国への糾弾のようにも聞こえる。あの震災は、この国が必至に気付かないふりをし続けた原発ファンタジーの薄皮を剥がし、ベニヤ板を剥き出しにした。つまり、ドラマを大きく動かしたこの芋煮会は、更に「3.11」を描く上での布石としても機能している、と言える。



<3.11>

東京ラブストーリー』から25年、“現代のラブストーリー”を描くべき今作があえて2010年という時間軸からスタートするのは、この物語が「3.11」を通過する覚悟を持っているという事である。坂元裕二は『最高の離婚』(2013)においても、あの日の地震をきっかけに結ばれ、同じく地震によって離婚するカップルを描いた。その大胆かつナチュラルな震災と物語の関係性に驚かされたわけだが、今作ではより直接的に「3.11」を描こうとしているようだ。いや、坂元裕二がやろうとしているのは、「3.11」という記号のような無味な響きへの抗いではないだろうか。これは宮藤官九郎が『あまちゃん』(2013)で行った実践と同質のものといえる。
hiko1985.hatenablog.com
視聴者は、2011年3月というタイミングで福島に帰省してしまった練(そしてその家族)に対し、胸を痛めている自分に気づくはずだ。それはフィクションが、物語が現実に有効である事の何よりの証明である。のっぺらぼうであった「被災者」という記号に、実存が宿る。ドラマの登場人物への愛着が、被災者の家族や生活、それが失われる悲しみを想像する力を我々に与えてくれる。5話において、練がじいちゃんに語る以下の台詞を引用しよう。

俺、東京で色んな人に会ったよ
会津さ住んでたら、会わんにかった人にもいっぱい会った
東京の人にも俺のこと知ってもらえた
その人達は多分、「会津」って聞いたら、俺のこと想い出してくれっと思うんだ
会津...あぁ練の町か」そう想ってもらえる
俺はそれがうれしいんだ
東京のあの人、会津のあの人
行ったことねぇとこに知った人がいる
住んでる人のことを考える
今、東京で何かあったら 俺は友達の心配をする
みんなそうやって、人に会って、人の事を想って生きてる
そういうのがうれしいんだ

想像すること、誰かの事を想うこと、その幸せな時間。そう、”ハッピーアワー”だ。暴論になるかもしれないが、この『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』は、『あまちゃん』と濱口竜介『ハッピーアワー』(2015)の合いの子のようである。坂元裕二が両作を観ているかは重要ではないのだけども、奇しくも『あまちゃん』は音を演じる有村架純のブレイクスルー作であり、『ハッピーアワー』に幾度も登場する食事(打ち上げ)シーンの”包み隠さなさ”は坂元作品との共鳴を感じる。更に驚くべきことに『ハッピーアワー』には、あのアルプス一万尺に興じるシーンが存在するのである。



<眩しげにきっと彼女はまぶたをふせて>

坂元裕二はこれまでも、どこまでも小沢健二的であったわけだが、5話における音の台詞にも、そのイズムを多いに感じた。

あのね。私、ちゃんと好きになりました
短かったけど、ちゃんと好きになった
好きだったらそれでよかった。それが、すごく嬉しいんです
ずっと
ずっとね、思ってたんです
私、いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう、って
私、私たち、今、かけがえのない時間の中にいる
二度と戻らない時間の中にいるって。それぐらい眩しかった
こんなこともうないから、後から思い出して
眩しくて眩しくて泣いてしまうんだろうなぁって

『問題のあるレストラン』最終話のエントリーとの重複になるが、これはやはり「さよならなんて云えないよ」からのトレースであろう。

“オッケーよ”なんて強がりばかりをみんな言いながら
本当はわかってる 二度と戻らない美しい日にいると
そして静かに心は離れていくと

そして、想い出して頂きたいのは3話の感想エントリーである。
hiko1985.hatenablog.com
静恵の「片想いも50年経てば宝物になるのよ」から

人が人を好きになった瞬間って、ずーっとずーっと残っていくものだよ。それだけが生きてく勇気になる。暗い夜道を照らす懐中電灯になるんだよ

という『東京ラブストーリー』の台詞を引用してきたのだが、上記の音の台詞はまさにこれの書き換えである。音が練に抱いた想いは決して消える事なく輝き、これからの彼女の人生を支え、照らしていく。その光に包まれた時、彼女は少し、泣くのだ。ときに、小見出しにある「眩しげにきっと彼女はまぶたをふせて」もまた小沢健二「愛し愛されて生きるのさ」からの引用だが、このフレーズ前はこう。

10年前の僕らは胸をいためて「いとしのエリー」なんて聴いてた
ふぞろいな心は まだいまでも僕らをやるせなく悩ませるのさ

坂元裕二小沢健二を通しても山田太一と接続していく。



<堕天使>

人身事故で電車が遅れる事に対して舌打ちをする乗客の存在、その小さな、そしてありふれた悪意に胸を痛め、電車通勤からバス通勤の乗り換えた練。そんな練が人身事故の報に対して舌打ちをする。衝撃のラストである。細身のスーツを身にまとい、前髪もパーカーのフードも失ったその姿はまさに堕天使。土下座をすると、堕天使になってしまうのだろうか。引越屋の先輩である佐引(高橋一生)もまた、心を殺すことで、理不尽な土下座を重ねる中で、ダークサイドに堕ちていった元・天使である。金と黒が混じったあの頭皮がよりその事実を強調するように思える。しかし、あまりの衝撃に見逃してしまいそうになるが、練は舌打ちの直前に、繋がれた犬に餌をやっているわけで、やはり練はあの練のままななのではないだろうか、という希望を残している点も巧い。



<タクシー>

堕天使の練がタクシーを止めようとするショットで5話が終わる。実に演出が徹底している。あの練がタクシーに乗ろうとするのである。タクシーは木穂子(高畑充希)の乗り物として、練と音のバスの対比として存在していた。これまでタクシーに乗り続けていた木穂子は、5話において初めて練と一緒にバスに同乗したわけだが、芋煮会の修羅場の後、彼女は再び1人タクシーに乗って去っていく。確かに、あの修羅場において最も深く傷ついたのは木穂子であろうが、練の重要な決断よりも自身の仕事(出世)を選んだのもまた木穂子なのである。そんな彼女に用意される乗り物はタクシーなのだ。練は、3話においても「乗る?」という木穂子の誘いを断ってまで、タクシーにはかたくなに乗らなかった。高速バスを降り、おそらく果てしなく遠い実家までの道のりにおいても、当然のようにタクシーには目もくれず、歩き出す。しかし、”あの日”を境に根本から変わってしまったらしい練はタクシーにたやすく乗る。この坂元裕二と並木道子の偏執的なまでの”タクシーに乗る人”への突き放し方は何だ。いやしかし、タクシーにひょいひょい乗る人間を信用できないという感覚が非常にわかってしまう自分もいて、改めて坂元作品というのは、実にニッチな層に向けて作られているなー、なんて思ってみたりします。視聴率が奮わないのも想定内なのでは、という気がする。この作品が高視聴率を記録するような社会では、この作品は作り出されなかったであろう、という二律背反が横たわっている。