青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

木皿泉『セクシーボイスアンドロボ』

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今期1番の注目ドラマ『ど根性ガエル』が河野プロデューサー×松山ケンイチのコンビという事で、木皿泉脚本作品の『セクシーボイスアンドロボ』を復習。原作は黒田硫黄の未完の漫画作品だ。

主演の大後寿々花松山ケンイチが本当に素晴らしい。”若さ”というか生命の躍動そのものである。ドークターマーチンとベスト、ニコとロボの衣装しばりもかわいくて楽しい。ロボのボックスシルエットのスーツ姿が、これまた最高にイカしている。と、まぁ好きな所を言及していくと、なんせ11話分、限がないので、大枠について、ざっくりと書き記していきたい。


執筆中、木皿泉鬱病に伏していた事もあってか(その為、数話は別の脚本家)、木皿ワークスの中でも飛び抜けて整合性に欠ける不思議な作品だ。元々詰め込み型故にそういった傾向の強い作家ではあるが、今作の混沌はひとしお。しかし、型にはめる計算を取りはらっている故か、木皿泉という作家のコアが最も色濃く感じさせられる作品でもあるようにも思う。


木皿泉は一貫して、「物事には必ず終わりがある」ということを描いている。と、同時に「”在った”ということは終わってしまえば、全て無かったことになってしまうのか?」という自問に常に向き合っている。そこに”在った””居た”という証をどうやって残していけばいいのか。例えば、ロボやニコの家族のようにフィギュアだとか牛乳瓶の蓋だとか写真だとか洋服の値札だとかを集める事で、自分が存在した証を残す人がいる。一方、誰かに覚えていて欲しくて、突拍子もない事件を起こしてしまったりする人がいる。殺し屋、強盗、通り魔、爆弾魔、立てこもり犯、といった”世界”からはみ出してしまった今作における悪役達だ。木皿作品においては、いい人も悪い人も誰もが、「自分はここに居るのだ」と声にならない声で叫び続ける。


“誰かが居た“という証は前述の通り、確かに物や記憶に、残っていく。しかし、私たちはとても臆病で、それだけではやはり心許ないのだ。物を無くしてしまったら、記憶を忘れてしまったら、やっぱり、全て無かったことになってしまうのか?木皿泉はそんな怯えた私たちの問いに浅丘ルリ子演じる地蔵堂店主を通して答える。

だってあなた一人で生きてるんじゃないもん。この世界にあなたは関わってるの。どうしようもなく関わってるのよ。


星ですら同じなんてありえない。人は変わるわ。ずっと同じなんてないの。ニコ、いろんなことを知りなさい。これからもいろんな事を知ってどんどん変わっていきなさい。

人は人とすれ違うことで変わっていく。つまり、私達の生きた証というのは、その人生で関わった全ての人に、残っていくのだ。だから、私たちはその固有性を磨いていかねばならない。「ワタシ(オレ)じゃなくてもよかったんじゃないか?」というのもまた、木皿作品で繰り返し語られるテーマの一つ。七色の声を操り、他人の声色を演じられるニコはまさに自己の代替可能性を図らずも体現してしまっている。ニコはロボに偶然出会う。テレクラで、たまたま電波が絡まりあったことで出会う。ロボは同調圧力に屈しない人だ。人と違うものを好きで、それを声高に叫べる人だ。

ロボはダイヤモンドで出来た星みたいだと思った
どんなものでもきっとロボを傷つけることは出来ないだろう

このロボというキャラクターを松山ケンイチが完璧に演じ切っている。眩し過ぎるほどに。ニコはそんなロボとの出会いを通じて、自分の声を大事にすることを学ぶのだ。事実、ニコは後半に従うに連れ、その「セクシーボイス」を使用しなくなる。自分の声に耳をすませる。

ロボの言うとおり私はずっと自分の味方でいようと思う
なぜならわたしを救えるのは 
宇宙でわたしだけだから

最終回がとてもいい。地蔵堂が無くなり、スパイ活動から解放されたニコとロボ。「また明日」と何気なく別れた2人はその後、何があったわけでもなく、何故か顔をあわせなくなる。どちらかが引っ越したわけでもなく、気持ちが離れたわけでもなく、遠ざかっていく2人。人と人が交わり合ってすれ違っていく、このはかない世の中をどこまでもリアルに、センチメンタルに描き切っている。どうかまた出会えますように。人生とはそういった祈りの積み重ねだ。