青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

梶井基次郎『檸檬』とシティポップ、あるいは『それでも、生きてゆく』

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丸善のレストランで「檸檬(爆弾)ケーキ」を食べたので、梶井基次郎の『檸檬』を読み直す。もし、未読という方がいれば、文庫の短編集を購入するもよし、もしくは『檸檬』一遍だけを取り急ぎ読むのなら青空文庫でもいいだろう。10分もかからない時間で読めてしまう短編だが、改めて何とも言えぬ質感を与えてくれる。本屋の棚に置いた檸檬を爆弾に見立て、その想像上の爆発を愉快にほくそ笑む、というプロットの素晴らしさは言うまでもなく、あらゆる細部が実に魅力的だ。とりわけ私が特別に好むのは下記のセンテンスだ。

またそこの家の美しいのは夜だった。寺町通はいったいに賑やかな通りで――と言って感じは東京や大阪よりはずっと澄んでいるが――飾窓の光がおびただしく街路へ流れ出ている。それがどうしたわけかその店頭の周囲だけが妙に暗いのだ。もともと片方は暗い二条通に接している街角になっているので、暗いのは当然であったが、その隣家が寺町通にある家にもかかわらず暗かったのが瞭然しない。しかしその家が暗くなかったら、あんなにも私を誘惑するには至らなかったと思う。もう一つはその家の打ち出した廂なのだが、その廂が眼深に冠った帽子の廂のように――これは形容というよりも、「おや、あそこの店は帽子の廂をやけに下げているぞ」と思わせるほどなので、廂の上はこれも真暗なのだ。そう周囲が真暗なため、店頭点けられた幾つもの電燈が驟雨のように浴びせかける絢爛は、周囲の何者にも奪われることなく、ほしいままにも美しい眺めが照らし出されているのだ。裸の電燈が細長い螺旋棒をきりきり眼の中へ刺し込んでくる往来に立って、また近所にある鎰屋の二階の硝子窓をすかして眺めたこの果物店の眺めほど、その時どきの私を興がらせたものは寺町の中でも稀だった。

世間に埋もれかねない「小さな声」や「かすかな光」を感じとる、おそらく常識からは阻害されてしまう、その繊細な梶井の感性とそれを心情で迫るのでなく、叙景的に表現しきる筆致にうっとりしてしまう。


改めて古典を読み返すと、つい現行のカルチャーとの点を結びたくなるのは性か。例えば、坂元裕二の『それでも、生きてゆく』において三崎文哉(風間俊介)が歩道橋や旧家にそっと置いて去ったあの日向夏
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あれにはきっと梶井基次郎の”檸檬”が託されているように思う。”気づまり”や得体の知れない不吉な塊を吹き飛ばす、檸檬爆弾のその黄色。それは世界からはみ出した深見洋貴(瑛太)の靴下の色でもある。同じく世界からはみ出した遠山双葉(満島ひかり)と洋貴の、互いの孤独は共鳴し、魅かれ合う。しかし、どうしようもなくすれ違っていく2人は、「最後のデート」を敢行する。その際にいつもヨレヨレのTシャツを着ている洋貴は珍しく白いシャツなどをめかしこむわけだが、足元にはやはり黄色い靴下が光っている。そして、感動的なのは、同じくゴリラのプリントのTシャツで街を歩く乙女である双葉のデートルックのワンピースが、レモンイエローに染まっている点だろう。梶井基次郎が仕掛けた檸檬爆弾が、凝り固まった既成概念を破壊し、ナイーブでアナーキーな2人を祝福する。


そして、もう1つ。主人公が街のうらびれたなんてことはない場所で、旅情と安息を空想する姿勢にも現代のカルチャーへの重要な影響を見る。

何故だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋が覗いていたりする裏通りが好きであった。<中略>錯覚がようやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。なんのことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。

「ここではないどこか」を変わりゆく街の風景の上に立ち上げるそのイマジネーションと滅私性。ここに、cero

シティポップが鳴らすその空虚、フィクションの在り方を変えてもいいだろ?

と歌い、その意味を広義にした現代の「シティポップ」の源流を見る。はっぴんえんどの「風街」からceroへと受け継がれた流れの更に後ろに梶井基次郎がいた、という再発見はどこか心を高揚させるものがあった。