青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

マット・リーヴス『猿の惑星: 新世紀』


前作では”進化”を意味していた高低差が、今作では”権力関係”として周到に画面内に構築されていき、”上昇/下降”‘もしくは“見上げる/見下ろす“といった運動にエモーションを宿らせる。メインヴィジュアルにも選ばれているシーザーとマルコム(ジェイソン・クラーク)が互いへの敬意を交わすシークエンス、それは「頭と頭を合わせる」という高低差を感じさせないショットで撮られている。


権力構造もしくは紛争といった現実社会の問題を巧みにトレースした脚本の作り込み。SFは現実以上に現実を語るというやつだ。しかし、今作の何よりの素晴らしさは、そういったアクチャルな事象を忘れさせてしまうドラマメイク、そして快楽性に満ちたアクションの数々だ。劇中の対抗する3つの勢力、我々はそのどれにも感情移入してしまう作りになっている。善悪の境界は曖昧になり、我々はただただ猿の躍動する身体性に視線を注ぎ続けることとなる。同様の役割を劇中で担っているのがシーザーの息子である”ブルーアイズ”であり、彼が”瞳”を意味する名前を冠しているのは示唆的だ(勿論”ブルーアイズ”というのは全ての始まりであるシーザーの母親の名前でもあるのだけど)。いくつかの演出もハッとする程素晴らしい。文明が朽ち果てた後のガソリンスタンドでTHE BANDの音楽が流れるメロウさ。それも”どこかただ身を横たえて休める場所を求めているだけなんだ”と歌われる「The Weight(重荷)」を、人類と猿の命運を担うシーザーとマルコムが聞くのだ。傷ついたシーザーが身体を休める場所として、『猿の惑星: 創世紀』の舞台であるウィル(ジェームズ・フランコ)の生家を選択する場面もいい。家に染みついた記憶、が見事に映像として再生されるあのシークエンス。ウィルの父の弾くあの歪なドビュッシーの音色が聞こえてくるようなメロウさがある。