青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

サラ・ポーリー『物語る私たち』


サラ・ポーリーの聡明さ、そして愛とユーモアに支えられた試み。サラは母を10歳で亡くし、家族からはお決まりのジョークとして「本当にお父さんの子なのかしら?」と言われて育ってきた。今作における彼女はある種の”孤児”だ。そんな彼女が自分自身を見つめ直す為に母と父を再獲得していくドキュメンタリー。このモチーフの時点で今作はドキュメンタリーでありながらも、どこまでも映画だ。


まず、サラは亡き母の断片を集める。父や兄弟などの家族、そして父や母の友人達へのインタビューを撮影。それらの映像と、かつて父によって撮影されたホームビデオを繋ぎ合わせる。ノスタルジーに満ちたセピア色の8mmフィルムに刻まれた母の姿と、複数の証言が組み合わさる事で、母の実存が蘇っていく。その再生の過程で明らかになっていく事件や真実は、単なる家族についてのドキュメンタリーと呼ぶには面白過ぎる展開でこの作品の大きな魅力であるのだけど、詳細を記すのは避けておこう。重要なのはサラ・ポーリーの”記憶”というものに対する手さばきだろう。複数の人々による母への証言は、どれもがそれぞれが微妙に食い違う。その差異を楽しんでいる。母を再生させる為の重要なファクターであるはずの”記憶”を不確かで信用に足らないものとしてはっきりと描いているのだ。サラ自身もまたその”不確かさ”に加担する。なんと驚くべき事に、セピア色に染まった美しき8ミリのホームビデオ映像には、サラが現代の俳優を演出して作成されたフェイクが混じっている事が、それとなく画面に提示されるのだ。これはなかなか強烈な体験だった。うすうすと「こんな瞬間が撮られている(記録されている)はずがない」と頭で思いながらも、許容していた自分に驚くのである。それは騙された事実が発覚した後も変わらない。真実と虚構の入り混じった画面の中に、はっきりと刻まれている”愛”のフィーリングを感じとっているからだ。私たちは、あらゆる虚構に満ちた”物語”の中から”本当のこと”を感じ取る能力を持ち合わせている。それは肯定することによく似ている。画面上には罪や嘘を許し、それを受け入れる人々の姿が映し出され続ける。サラ・ポーリーは今作において、亡き母ダイアンという人間のスキャンダラスな多面性を通し、人間の普遍的な不完全さを受け入れ、大らかに肯定しているのだろう。実にパーソナルな1本でございました。