青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

米林宏昌『思い出のマーニー』

この世には目に見えない魔法の輪がある
輪には内側と外側があって、私は外側の人間

という台詞が冒頭に配置されており、米林宏昌の「宮崎駿が描かないものに焦点を当てるのだ」という意気込みが窺える。なるほど、杏奈という今作の主人公は無表情で不機嫌。『千と千尋の神隠し』の千尋という例もなくはないが、このような主人公はスタジオジブリ作品において異例と言っていいだろう。センシティブな感性が内に向かって、自分や他人を傷つける女の子。七夕のお願い事に、夢や冒険を託すどころか「”普通”に暮らせますように」と書いてしまう。そんな彼女の感性を抱きしめ、この世界での舟の漕ぎ方を教えてあげるのが、今作の大まかな流れである。そこで、登場するのがマーニーであるわけなのだが、杏奈とマーニーの同性愛的な関係を取り上げ、「性の未分化」「月と潮の満ち欠け」といったタームで、本作を解説していってしまうのはどうにもつまらない。


思い出のマーニー』という作品は"思い出"の名のとおり、「建物に染みついた記憶との交感」という事をやろうとしている。記憶は建物に残る。療養の為に訪れた田舎町で、杏奈は大岩夫妻の家に居候する事となる。もう独立してその家を出た長女の部屋を間借りする事となるのだが、杏奈はその部屋に対して「人の家の匂いがする」と居心地の悪さを表明する。その部屋には、かつてそこにいたはずの娘の物や記憶が染みついているからだろう。豊かな細部に満ち、実に印象的な造型の大岩夫妻のその家も、彼らの人生が染みついた建物であり、突如、新婚旅行の思い出の風鈴が現れ、記憶を振動したりする。

同様に「湿っ地屋敷」(もくしはあの塔)という古い建物に残る記憶として、マーニーはそこに”在る”。杏奈は屋敷を通じてその記憶に触れ、時空を超えてマーニーと交流する。「忘れると消えてしまう」というルールが、何故か実在するはずの大岩夫妻にまで適用されそうになるあたりから、物語は”境い目”を溶かし出し、異様な質感を伴って進んでいく。青い瞳で杏奈とマーニーが、画を描くという行為で杏奈と久子が、屋敷の窓から外を眺めるという行為でマーニーと杏奈とさやかが、眼鏡というアイテムで久子とさやかが、マーニーのパートナーとして杏奈と和彦が・・・人格が次々に溶けて混じり合っていくような感覚。風景に溶ける生命、そして、その連綿性。

しかし、"さやか"という実に宮崎駿的な人物(『となりのトトロ』のメイのようであり、いやはやあの眼鏡姿は宮崎駿その人だろう)が現れ、物語はジブリ的なたおやかさを取り戻す。冒頭の杏奈の言う、「魔法の輪」は、マーニーを巡る血縁の循環のイメージに書き換えられ、杏奈はその輪を辿り、生きていく為に必要な、必ずや彼女を守ってくれるであろう過去の「記憶」を取り戻していく。堂々たる佳作である。