青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

山田稔明『新しい青の時代』


メロディの素晴らしさにシンプルに打ちのめされる感覚というのはいつ以来だろうか。歌謡曲と呼ばれる大衆音楽や90年代までのJ-POPには、確かに強力なメロディというのが存在して、それ一発で他者と他者とを繋げてしまう不思議な力が宿っていた。いつからかこの国のポップスはメロディの求心力を失い、ビートの革新性やアンビエンスな音響、国外の音楽とのリンクなんかに夢中になっていたわけだけど、心の底ではメロディに飢えていたのだな、と気付かされる。山田稔明の紡ぐメロディは魔法である。「月あかりのナイトスイミング」(言うまでもなくR.E.M.「Nightswimming」と「Man on the Moon」)「光の葡萄」「一角獣と新しいホライズン」「日向の猫」「あさってくらいの未来」etc・・・どれか1曲でも聞いてみれば、わかって頂けると思うのだけど。

練り込まれたコード進行と言葉はメロディを盛りたてて、スッと私たちの生活にしみ込んでくる。アルバムを貫く柔らかな音像も耳を惹くはずだ。クレジットに記載されている使用楽器を挙げてみると、ペダルスチール、マンドリンアイリッシュハープ、ヴァイオリン、フルート、グロッケンシュピールクラリネット・・・チェンバーポップと呼んでさしつかえない編成だ。また、大らかなサウンドスケープから連想されるのはR.E.M.Wilcoといったオルタナティブなカントリーロックで、その上に日本語で綴られた美しいメロディが違和感なく乗っかっている。はっぴいえんどから綿々と受け継がれた日本語ポップスの才能の接続先はGOMES THE HITMAN時代のネオアコ*1からアメリカの伝統にその対象を移し変えている。1曲目「どこへ向かうかを知らないならどの道を行っても同じこと」ではディランの引用も飛び出す。少し鼻にかかった少年性を保った歌声は、フリッパーズギターから綿々と続く”blue boy”の伝統だ。しかし、GOMES THE HITMAN時代と比較すると、積み重ねてきた説得力というのがある。山田稔明には明確に歌いたい事があるように思う。GOMES THE HITMAN「手と手、影と影」と「蒼茫」というJACCSカードCMソング繋がりというのもありますが、山下達郎が歌い続ける「都市生活者の孤独」を山田稔明も紡いでいるのではないか。

この街はまるで 長い長い夢みたい
伸ばした両手を 何度も
結んでひらいて 夜が明ける
溢れる感情よ 脈打つ孤独な心臓よ
暮らしはどう? みんな
季節はもう いつだってそう
僕らを取り残していく
冷蔵庫のなか朽ち果ててゆくような
目には見えないスピードで


「光の葡萄」

美しい言葉で見事に我々の抱える孤独を捉えている。こういった言葉にするのが難しい感情全てを”blue”と呼んでしまおう。しかし、3.11以降、”blue”意味合いを変えながら、我々に襲いかかっているように思う。そして制作されたのが、この『新しい青の時代』だ。

言葉が紡ぐのは
写真に残らない風景と
不確かな日々の記号だ


「一角獣と新しいホライズン」

保坂和志の細部を描写する広角のカメラを想わせる筆致で、日常をスケッチする事で、零れ落ちていく記憶と感情を克明に紡ぐ。山田稔明が10年以上に渡り続けているブログ『monoblog』を少し読むだけで、その細部の充実に、生活を慈しむ態度のようなものが感じられるはずだ。彼は音楽活動を通じて生活(=LIFE)の再肯定を試みている。同様の事を90年代に行ったのが小沢健二。しかし、山田稔明の音楽にあの躁のようなアッパー感はなく、前述のようにたおやかなサウンドスケープで、哀しみを受け入れて鳴るブルースである。新しい青、だ。

「愛しい」や「恋しい」や大げさな愛の誓いじゃいえない
あいまいな感情が君に伝わればいいな

この世界はやがて果てるって そんなことわかってるけど
僕らが今 望むことは 5センチくらいの 些細な兆し


「あさってくらいの未来」

生活者としての祈りが込められた、ゴスペルのようなポップミュージックが11編詰まった大名盤『新しい青の時代』を聞き終え、この15年、山田稔明という才能を見落としていた事をポップミュージックリスナーとして悔やむ。しかし、今はGOMES THE HITMANを含め、その少なくはないディスコグラフィーが金脈のように燦々と輝いて見えるのだ。

*1:厳密に言うとゴメス時代もネオコアを参照にしていた期間は短い