青春ゾンビ

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塩田明彦『映画術 その演出はなぜ心をつかむのか』


貪るように読んでしまった。目から鱗の1冊である。映画監督である塩田明彦映画美学校で俳優志望者向けに行った講義をまとめた1冊。「立教ヌーヴェルバーグ」という1980年代の立教大学の映画サークル周辺、つまり蓮實重彦チルドレンである黒沢清青山真治万田邦敏らは素晴らしい監督であると共に良き映画の語り手であるが、御大を含め、「映画を観る目」を養う入門としてはいささか難解な所がある。しかし、この塩田明彦による『映画術』は講義の書き起こしである事も起因しているのだろうが、イージーに読めてしまう上に、実に明瞭に映画が持ちえる魔法に秘密に触れているように思う。例えば映画批評において頻繁に使用される「ショット」という言葉。もし人に「ショットって何?」と聞かれたら口をつぐんでししまうのだけども、本書によれば

映画が生まれ落ちた瞬間から映画だった最大の理由は、上映尺が1分だったからです。どういうことか?つまり、世界を1分以内で捉えなければならなかった、ということです。<中略>1分間の空間の変化、光の変化、状況の変化、情報量の変化、画面上の全ての動き・・・それが映画なんです。<中略>1分であることによって、始まりがあって終わりがある。どこで始めて、どこで終わるのかを決める。こうして産み落とされた映像を、ここでは「ショット」と名付けようと思います。つまりショットとは。なによりもまず被写体の発見であって、その動きの発見です。その動きを切り取る作り手の意志が、スクリーン上にひとつの出来事を描き出します。

実に簡素な言葉で明瞭に説明がなされている。抜粋を始めると全て引用してしまいたくなるのだけども、もう1つだけ、どうしても伝えたい箇所を。

映画が本当に面白いのは、今ご覧になったように、上辺で語られている物語がある一方で、それとは別の次元で、もうひとつの物語がスタイルとして語られているからです。二人がひとつ屋根の下でどういうふうに距離を詰めていくのか、どういうふうに橋を渡るのか/渡らないのか・・・語られている物語に対して複数の次元を作り出していく、それが映画における演出というものです。そうやっていくつもの水準で語っていくことによって、映画はある「豊かさ」を獲得していきます。
<中略>
こう思っている。だからこう動いた。こう思っている。だからこう動いた、という因果に陥っている「動き」は、すべからく説明にしかならない。「怒った」から「殴った」ではなく、「いきなり走り出した」、なんで?「あ、怒ってる!」という予想を超えた瞬間が世の中にはある。そこには常に複数のエモーションがあって、何が出てくるかわからない潜在層が重なっていることで、人がただそこにいるだけでも緊張感が生まれる。

これには、ちょっと震えるほど感動してしまった。何で誰もこういう風にわかりやすく説明してくれなかったのか。そうなのだ。世界の複層性、突発性が画面に浮かび上がってしまう、それが私が漠然と「映画」という芸術に惹かれ続けていた理由だ。おそらくこの本書における塩田明彦の映画の捕らえ方は現代の映画批評のメインストリーム*1からは大きく外れてしまっているのだろう。しかし、もう少しだけこういった映画の観方が浸透してくれぬものかと常日頃思っていて、その大きな契機になりうる1冊だと思います。必読!

*1:町山智浩さんとか宇多丸さんとかかしら