青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

銀杏BOYZ『光のなかに立っていてね』


銀杏BOYZの9年ぶりのリリースに対して何か書こうと思うと、「銀杏BOYZと私」に終始したくなってしまう。きっと誰もがそうであろうし、むしろ冷静さを欠いてない銀杏BOYZのレビューなど読みたくないとすら思ってしまう。そういう考えに至ってしまうのは、銀杏BOYZへの強烈な思い入れと、その壮絶なバンドヒストリーが少なからず作用している。愛聴してきた人間にそれらを抜きにこのアルバムを語るのは無理だろう。それが可能なのは銀杏BOYZの事を1ミリも知らない平行世界の私だけなのだ。冒頭で「自分語りに終始したい」といった宣言をしたものの、他愛のないいくつかの恋物語や友情があって、その涙の側でいつも銀杏BOYZの音楽が鳴っていた、というだけの話である。とても切実であるけれど、ありふれた事象でもあるのわけで、詳細は語るに値しないのだけども。

君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命

君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命

DOOR

DOOR

『君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命』『DOOR』 という2枚のアルバムがリリースされた9年前と言うと、ちょうど僕は大学に入学した年だった。青春パンクはクラスのイケてる奴らが好きだったという理由で遠ざけていた。けど、その中で実はこっそり1枚だけ聞いていたのがGOING STEADYの『さくらの唄
さくらの唄

さくらの唄

であったみたいな、これまたありふれたエピソードもあるのだけど、とにかく銀杏BOYZの2枚のアルバムとフェスにて目撃したライブパフォーマンスに20歳前後の私はひどく打ちのめされた。それまでの渋谷系サウンドやソフトロックを愛聴するウブな耳を、フリッパーズギター経由のシニカルな態度を、全て更新されてしまったのだ。歪さの美しさ、格好つけない事の格好よさ、ジャンルをまたいだ嗜好の横断、そしてそれらを融合させる楽しみ、好きなものをとことん好きでいる事の喜び。あらゆる「大切ななこと」をこのバンドから気づかされたように思う。そして、「本当のこと」は何かしらの過剰な表現からしか生まれないという事も教えられた。私が好きな表現のほとんどが銀杏BOYZの子供たちなのではないか、という想いに駆られる事がある。フジロック久(仮)、どついたるねん、hi,how are you?、失敗しない生き方、Homecomings、s.la.c.k. etc・・・とファンを公言しているミュージシャンは把握しているだけどでも枚挙に暇ないのだけど、神聖かまってちゃんだって昆虫キッズだってそうだろうし、直接の影響は受けていないだろうけど、あのceroですら私にとっては広義の意味では銀杏BOYZの子供たちのように思うのだ。演劇では言えば、あらゆるカルチャーが串刺しとなって愛を叫ぶロロ、セーラー服をまとい爆音の中踊り続け「生きろー」と叫ぶバナナ学園純情乙女組、ダンスと呼ぶには歪過ぎる運動で役者に負荷をかけそこから浮かび上がる何かを掬い取るマームとジプシー。お笑い芸人で言えば、あえて洗練を捨てマイノリティの表現としての美しい漫才を披露する三四郎やノイズまみれのグロさから愛が浮かび上がるコントを愉快犯的に撒き散らす日本エレキテル連合にも銀杏BOYZを感じてしまう。どのアーティストも近年、私を虜にさせてくれたものばかりだ。銀杏BOYZに感謝!


興奮して話が逸れました。大学に入ったのでした。大学生活というのは4年間というカウントダウン付きの楽園だ。宣告を刻々と受け入れながら、その喜びを享受していた。そんな折、峯田ブログやそれら書籍としてまとめた『恋と退屈』

恋と退屈

恋と退屈

を繰り返し読んでは、いつまでも青春の輝きを纏い楽園に居座り続けている彼らの事を羨ましく思っていたものだった。9年前の2枚の1stアルバムには青春にまつわる「死んじまえ」「愛してる」の両方が鳴っていた。それは閉鎖された楽園から世界を丸ごと鳴らすという離れ業だった。『光のなかに立っていてね』ではその「終わり」が鳴っている。銀杏BOYZというバンドの『ビューティフル・ドリーマー』的な楽園世界を成立させる、その裏側では(まぁ当然の事だが)想像以上の負荷がかかっており、バンドは崩壊していった。もうバンドには峯田1人しか残っていない。2007年のシングル『光』の表題曲において、これまで歌い続けていた「君」を「いつかの僕」であったと暴き、

僕を置いてけよ

と決別を図った。しかし、その決別の先を見出せる事ができなかったのだろうか、バンドは停滞してしまう。そして『光のなかに立っていてね』に収録されている「光」でそのパートは

僕を置いてくなよ

と書き換えられている。そして、アルバムのタイトルは「光の中に立っていてね」だ。非痛な祈りである。去っていったメンバーに呼びかけているようでもあり、自身のクリエイティビティの源である「僕の中の少年」への呼びかけにも聞こえる。その証左としてアルバムは”17歳”から始まる(9年前の『DOOR』もまた「十七歳 (・・・cutie girls don’t love me and punk.)」から始まるのだが)。全ては終わってしまったのだ。


9年もの間、新しいアルバムがリリースされなかったのは、次に作るアルバムも必ずや1stアルバムでなくてはならなかったからであろう。そして、ついぞリリースされた『光のなかに立っていてね』は、確かに時間軸を超越した1stアルバムのような趣だ。9年という歳月を経てもなお銀杏BOYZは本質的な所で全く変わらず過剰で歪な存在だった。その事がうれしい。「シューゲイズmeets演歌」というタームでもって、このアルバムを新しいものとして語るのはふさわしくないだろう。「夜王子と月の姫」だってシューゲイズだったし、「ボーイズ・オン・ザ・ラン」はすでに演歌だった。ジャンクな雑食性は銀杏BOYZのかねてからの面白さの1つだ。打ち込みに関しては、正直チープさに首を傾げていたのだけど、インタビューでの

もちろん音楽を聴くという趣味としてテクノやヒップホップは聴いているんですけど、そういうものにしたいというより、日常生活で聴けるちゃちくて、しょっぱい音……ゲームセンターやパチンコで鳴っているようなサウンドを形にしたかったんです

という峯田の発言で腑に落ちる。そうだ、銀杏BOYZの音がチープでないわけがない。格好つけない事の格好よさだ。今作の最大のトピックであるノイズへの戸惑いはなかった。初めて『君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命』を再生した時から銀杏BOYZはいつでもうるさい音楽だったし、だからこそとても魅力的な音楽に思えた。インタビューによれば、1つの楽曲につきギターサウンドだけで20トラック重ねているものもあるらしい。そのノイズがもたらす圧倒的な情報量の洪水は、1stアルバムの言語でのそれに比肩しうるだろう。後半に向けて徐々に美しいメロディーを浮かびあがらせていくアルバム構成も1stと同じだ。では、銀杏BOYZは何も変わっていないのだろうか?勿論、そんな事はない。劇団ポツドールとの接近や「ボーイズ・オン・ザ・ラン」のPV、ライブ盤『BEACH』に収録されている「東京終曲」のPV

にも顕著だけども、世の中の負の要素を浮かびあがらせる表現にも注力している。現実の辛さを突き付けてくるようなノイズはまさにそれだ。そして、より際立つメロディーの美しさ。これが全てだ。インタビューでも、峯田は

現実と夢の対比なのかもしれないですね。自分に襲いかかってくるストレスやキツいものが現実にはある。それに対して夢というのは自分にとってマイナスな要素はない。でも現実をよく見てないと、夢が現れた時にそれが夢だと気付けない。だから夢を表現するためには、人が描いていないキツいところまで現実を描かなければならない、と。僕が本当に出したいのは、その真ん中にある部分。でもその真ん中の部分を出そうとすると、計算が入ってしまうけど、僕は計算ができないんです。だからその真ん中を出すためには現実と夢という相反する両脇を出してしまえば、真ん中に浮かぶものがあるんじゃないかなって思ったんです。僕がずっとバンドでやりたいのはそういうことなんです。うまくできたかはわからないんですけど、自分の中でやりたいことはある程度できた。

という事を言っている。その真ん中ではただ純粋に音楽が鳴っているのだろう。僕にとっての銀杏BOYZは、

ハロー、今、君に素晴らしい世界が見えますか?

と問いかけてくれるバンドで、「ぼくたちは世界を変える事ができない」というフレーズから逆説的に「変えよう」という意志を感じさせてくれるバンドであり、峯田和伸は紛れもなくヒーローであった。しかし今、銀杏BOYZをそういった文脈から解放してあげる必要性を感じている。今は「ぽあだむ」の音楽的豊かさとポップネスを信じたい。実際、このアルバムの歌詞の無意味性に強く惹かれてしまうのだ。

夢見る頃を過ぎて 英雄なんていないって重々承知してんだ

というラインも重要だし、「反戦デモ」「計画停電」といった単語を「80円マックのコーヒー」と同時に鳴らしてしまう筆致も冴えきっているが

でもあの子さえいれば ドニ・ ラヴァンみたいにPOPになれんだ

アイウォンチュだぜ
アイニヂュだぜ
アイラビュべいべー

といった無意味性が心に響く。凄く”音楽”であるような気がする。楽園を形成し、世界そのものを鳴らしていた銀杏BOYZは確かに終わった。しかし、これからの銀杏BOYZは世界と、そして改めて、ついに音楽を鳴らすのだ。峯田和伸のメロディーセンスと音楽愛を信じよう。先の言葉を訂正したい。『光のなかに立っていてね』では「終わり」と「始まり」が響いている。