青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

大森立嗣『まほろ駅前狂騒曲』

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映画『まほろ駅前多田便利軒』(2011)、テレビドラマ『まほろ駅前番外地』に続く映画作品。良い。映画である事から逃げない丁寧な脚本と演出(テレビシリーズを挟んだ故か、ややテレビ寄りになってはいる)、カメラ、照明、衣装、美術の充実、岸田繁くるり)による劇伴も前回以上に冴えわたり、作品に色を添えている。これはもうプログラムピクチャー化して欲しい趣である。何と言っても主演の2人がいい。華と演技力を兼ね備え、大衆からサブカル層まで広い支持を得ているあの世代のトップランカーだ。松田龍平の行天の、得体の知れない空洞感は、ただそこに居るだけでドラマを巻き起こす。それにいちいち揺れて、動く多田もいい。”翻弄される瑛太”というのは彼の数ある仕事の中でもピカ1の魅力を発揮すると思っている。そして、とにかく脚本がいい。三浦しをんの原作は未読であるので、この良さが脚本家の力なのか原作のそれなのかはわかりかねる所なのだが。

東京から神奈川へ向けて突き出るように存在する街“まほろ市”。
ここは都会というほどでもない・・・かといって田舎でもない。
天気予報はだいたい外れる。
まほろという街は、人もモノも流行も最後に流れ着く。
ゆりかごから、墓場まで、まほろに生まれた人はまほろを出て行かない。
例えこの街を出て行っても、必ず戻ってくる・・・

これは1作目『まほろ駅前多田便利軒』の冒頭のナレーションだ。東京の町田市をモデルにしており、撮影も実際に町田周辺で行われている。が、それは別に重要ではなくて、「まほろに生まれた人はまほろを出て行かない。 例えこの街を出て行っても、必ず戻ってくる」という部分だ。つまり、”まほろ”というのは循環の街であり、“必ず戻ってくる”というのはこのまほろシリーズの通奏低音、もしくはある種の掟のようなものとなっている。


今シリーズの特徴とも言える、いまどきの映像作品には珍しい、執拗なまでに吹かされる煙草(ラークとマルボロメンソール!)の煙。あれはファッション的な小道具では決してなく、口から入り、体内を巡って、口から出る、という”循環”を印象づけるキーヴィジュアルなのである。まほろ市内を循環する”横中バス”や多田の着るパーカーのフードなど、今作もこれまでと同様に”環”を軸においた脚本作り、画作りが行われている。であるからして、便利屋を営む多田と行天の仕事は、途切れた”循環”を誰かの代わりに繋ぎ直す事に終始している。バスの間引き運転調査にしても、息子が行かなくなった母の見舞い代行にしてもそう。そして、今作の最大のミッション”子守り”である。
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その対象となる”はる”という子どもは、行天が元妻に精子を提供した事で生まれた生物学的な娘。行天春彦の”春”を受け継いだはるちゃんなのだ。この子守りの依頼を行天に内緒で引き受けた多田もまた、過去に赤ん坊を亡くしている。果たせなかった2人のパパの役割。途切れてしまった彼ら自身の血の循環を繋ぎ直す。主人公2人の学生時代の馴れ初めを思い出して欲しい。授業中にふざけていた多田が誤って行天の指を切断してしまう。その負い目から、多田は十数年ぶりに再会した得体の知れない行天の面倒を見ているのである。その多田が切断してしまった”指”というのが小指であって、つまりは”赤ちゃん指”であるという脚本の緻密さに驚いて見せても、大袈裟にはならないだろう。多田が繋ぎ直したいのは、何よりも「行天の小指」であり「父と子の繋がり」なのだ。ちなみに、そんな多田が想いを寄せる女性(真木よう子)は”未亡人”であるし、とにかく、このまほろシリーズは周到に、”途切れる””繋がる”といったモチーフを点在させているのだ。


今作において、行天の小指は再び切断され、そして、また元に戻る。1作目と同様に、行天は失踪し、またフラっと多田の元に現れる。まほろという街に流れる“必ず戻ってくる”というルール。映画の序盤、サッカーボールを頭にぶつけられた行天が、検査の為に病院に行く。その病院には、便利屋として”お見舞い代行”をしている老人も入院している。その後、バスジャック事件に巻き込まれた行天は、負傷して再びその病院に舞い戻る。こういった所にも、そのルールは適用されている。「死んだら、あの世ってあるのかねぇ」と老人が訪ねる。行天は、そんなものはない、と答える。

でも、俺が生きている内はなるべくあんたの事を忘れないようにするよ

死んでもなお、老人は”まほろ”に留まり続けるのだ。このグルグルとしたオフビートな”循環”が、劇中での多田の「やり直せる」という祈りのような言葉に強度をもたらすのである。