青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

ナイロン100℃『社長吸血記』

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ケラリーノ・サンドロヴィッチは凄い。山内圭哉扮する探偵がノートにメモする不明瞭な言葉の数々(例えば、「イカの刺身はある」「1992年に確かに秋は在った」だとか)に顕著だが、その無意味性と跳躍。まさに立川談志のイリュージョン的な言葉遊びで進んでいく会話劇が刺激的だ。同時進行していく2つの空間、繋がりが徐々に曖昧になりながら、ヌメっと接続する快感。それでいて、筋はしっかりと存在する。社長の不在が、終始”不安”や”不穏”を影に潜ませ、『ゴドーを待ちながら』(ベケット)に北野武アウトレイジ』の凶悪性、暴力性を掛け合わせて、サラリーマン喜劇として成立させてしまう、その筆致。


そして、舞台美術のセットの豪華さ、プロジェクションマッピングや照明とった技術力の高さにも度肝を抜かれた。いつも観ている小劇場のそれとはレベルが段違いだ。勿論、チケット料金も倍以上になるわけだけども。それにしたって素晴らしい。岩崎う大かもめんたる)がポツンと佇む屋上に飛行機の影が射したと思うと、音楽が流れだし、舞台上の建物にプロジェクションマッピングが投影されていく、あのOPタイトルクレジット演出の恰好よさときたら。役者陣の力量にも舌を巻く。特に犬山イヌコみのすけ峯村リエ三宅弘城大倉孝二といったナイロン100℃所属の主要役者の巧さ。声色や声量、身体性、どれもが圧倒的。彼らがいなければ、不条理かつ難解なケラリーノ・サンドロヴィッチの戯曲を、エンターテイメントとしては成立させられないだろう。とりわけ、驚かされたのはみのすけ。彼の人間の持つ根源的な狂気性を日常の所作に自然に落とし込んだ演技だ。かもめんたるの2人の客演も見事にはまっていた。狂気が”うすら笑い”として漏れる岩崎う大の存在感もさすがだが、槇尾ユウスケの「根っこから腐っている人」としてそのまま舞台上に在る姿が凄まじかった。鈴木杏山内圭哉の2人に関しては、完全に劇団所属の俳優と思うほどであった。