青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

アルフォンソ・キュアロン『ゼロ・グラビティ』


宇宙という無重力空間を長回しで撮りたい、という欲求に支えられた映画だ。であるからして、ロシアの衛星が爆発して、アメリカの宇宙船を破壊し、中国に助けを求めるだとか、船が旗に絡み取られている、だなんていうのは蛇足にも思う。喜ぶ人は喜ぶのだろうけど。映画の外と繋がろうとする必要はない。無重力の空間のはずが、急に重力を感じてしまう。


広大な宇宙の片隅で、偶然に受信した回線から音楽が聞こえてくるイメージは人生の偶然性の美しさが見事に描かれている。そして、その音楽は子守唄であり、宇宙船が胎内のイメージへ、そしてサンドラ・ブロックジョージ・クルーニーの2人の宇宙服を繋げていた紐がへその緒のイメージに変容していく様はお上手の一言だ。サンドラ・ブロックは生まれ変わっているし、亡くなった娘を生み直しているようでもある。更に、海から四つん這いに陸に上がり、立ち上がるイメージまで付けくわえ、人類の再誕生まで託してしまう大袈裟さ。しかし、その大袈裟さにも、この「映画史」を生まれ変わらせようという明確な意志を持った『ゼロ・グラビティ』の画の崇高さの前では、説得力が生まれる。今作の高速で画面から飛び出す衛星の破片に全力でのけぞった我々を、100年後の人々は笑い話のように語るのだろう。


イメージの押しつけが控え目な所がいい。そういった意味は撮っていたら、勝手に後から付いてきたのだ、と言わんばかりだ。何ならこの映画はサンドラ・ブロックに宇宙服を脱がせたい、そんな欲求から作られたのではないか、と邪推したい。だからこそ、あの"脱ぐ"シークエンスは、たっぷりの尺とフェティッシュが費やされ、想いが託されているように思う。本当の事を言えば、キュアロンはサンドラ・ブロックからタンクトップとボクサーパンツだって剥がし取りたかっただろう。


色々書いても、結局『ゼロ・グラビティ』の魅力はアトラクション的体験が全てであり、とにかく劇場で、できればIMAXにて体験するにこした事はないのです。とにかく劇場の熱気が凄い。終演後「凄過ぎた」「今世紀最高の映画!」「今まで観た中で1番」などと鼻息荒く語り合っている人がたくさんいます。