青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

森崎東『ペコロスの母へ会いに行く』


89歳の認知症の母とその息子を主軸とした作品だが、福祉問題などにメスを入れた社会派作品などではない。人違いだとかオレオレ詐欺だとか”変容”を主軸においた見事なギャグが冴え渡る上質な喜劇であり、涙を絞り取るような生命賛歌だ。息子(岩松了)がホームに預けた認知症の母(赤木春恵)に会いに行くと、母は息子の事がわからず、「こん盗っ人がぁ!」となじる。しかし、岩松了が帽子を取り、その見事に禿げ上がった頭をさらせば、「なんだ、雄一かぁ」とパッと笑顔になり、頭を撫で回す。過ぎ去った時間が“ハゲ頭”に託され、その感触だけが母と息子を繋ぐ確かさとなっている。

ボケるとも悪か事ばかりじゃなかかもしれん

という岡野雄一が作品に託した想いと

記憶は愛だ

という森崎東の信念がこの映画の運動を支えているように思う。ボケ始めた母は、現実と記憶が混在した反復の中で、ゆっくりと自身のこれまでの歩みをなぞっていく。カメラが何度も印象的に収める、勾配の豊かな坂を上り下りする人々の運動、それに呼応していくように、長崎という街での記憶を慈しんでいく。過去のシーンにおける若き母と父を原田貴和子加瀬亮が素晴らしい生活感で持って演じている。

そして辿り着く、「これぞ映画」としてか言えない魔法のような眼鏡橋のシークエンスときたら。私はもうボロボロと泣いた。眼鏡橋は、序盤、仕事をサボる雄一が携帯で咎められた場所であり、また中盤に挿入されたエピソードによれば父がはぐれた孫(大和田健介)を発見した場所である。つまり、この映画において「眼鏡橋」は”必ず発見される場所”として変容しているのだ。故に、終盤、長崎の美しき灯りのフェスティバルにおいて、1人車椅子を降り、歩き出してしまったみつえは当然のように眼鏡橋にて発見される。眼鏡橋の“眼鏡”はまた、夫である加瀬亮や息子である岩松了がかけているそれであろうし、発見する「眼(まなこ)」そのものだろう。みつえは、橋の上で、死んだはずの夫と手を繋ぎ、同じく死んだはずの妹や親友と共に立っている。そして、その奇跡のような画を息子の瞳も共有し、「母ちゃん、よかったなー」と泣く。一生懸命生きていれば、ボケてしまったとしても、その生きてきた分の時間を振り返り多くの人々に再会できる。シンプルながら、この見事な視線の切替がもたらす真理を、過去と現在と未来を同一の画面に収めてしまう「映画」の奇跡でもって捉えたこのシーン。これこそ、映画人森崎東の集大成のよう。そして、聞こえてくる孫の「(写真を)撮るよー」という声が、まるで森崎東の声そのものに聞こえ、涙するのであります。OPの「森崎東監督作品」のクレジットからEDの太いフォントでの「監督 森崎東」というクレジットまで合わせて、震えるの一言だ!