青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

松本人志『R100』


松本人志がやりたいのは、反転と融和である。その対象は”SとM”であるし、”父と母”であろうし、”作り手と観客”であろうし、”現実と虚構”だ。「誰もやっていない事ではないと意味がない」という松本人志が抱える病的な脅迫観念が映画をひどく歪なものにしているのは紛れもない事実だが、反転と融和は、映画というフォーマットがその黎明期から為し得てきた試みであり、その意味においては『R100』もまた真っ当に映画だ。何故なら、この作品はその反転と融和を丁寧に画面の運動で撮っている。例えば”食べること”に着目し、画面を振動させている。

ささやかながら幸福に描かれる食卓のシーン。序盤においては、父SMプレイを受けながらも、ケーキを食卓に持ち帰る事に成功している。ところが、出てくるネタを全て素手で潰されるという佐藤江梨子との寿司屋での食べ物プレイを経てからは、父が家に持ち帰る食べ物にもSMプレイの波が忍びよってくる。食卓に出すはずのコロッケはグチャグチャだ。そして、「唾液の女王」こと渡辺直美がとうとう家の中にまで侵入し、食べ物を口に含んでは吐き撒き散らす。更に、全てを丸飲みしてしまうという「丸呑みの女王」こと片桐はいりが、妻も義父も食べてしまう(余談だが丸飲みを終えた片桐はいりの口がダルンダルンに伸びている所なんかとても好きだったな)。その「丸呑みの女王」への報復シーンにおいても、カップラーメンに注ぐお湯待ちが設定されている。松本本人は『ごっつええ感じ』でのキャシィ塚本のような気分で遊んでいるだけかもしれないが、ひたすらに「食べること」にそれ以上の意味を託して映画を持続させていっているのだ。もしかしたら、松本人志は天然で映画の撮り方を知っているのかもしれない。SMプレイのシークエンスはそのほぼ全てが空間ないし何がしかの分断を撮っている。寿司屋(カウンター)、階段、噴水、工事現場、路上駐車された車、社内のトイレ、踏切etc・・・どのSMプレイにおいても空間がセパレイトされている事に気づくはずだ。「声の女王」こと大地真央とのプレイは、「目隠し」や「猿ぐつわ」が用いられる事で音や声が分断されている。分断が映画を鼓動させている。そして、渡辺直美の妙な編集のダンス後の落下(まるで小津安二郎『風の中の牝雞』のような)が決定的な分断となり、映画はギアを変えていく。映画は明らかに意図的にチープにハチャメチャを装っていく。そして、この作品が実は映画内映画であった事が明かされ、ハチャメチャ映画にツッコミを入れる人々が画面に映し出される。それは我々観客の姿がスクリーンに反転している、という事なのだろう。ツッコミを入れる自分の姿を観ながら、文句を言いながらも、実はどこかで松本人志の映画に破綻と挑戦を期待している事に気づく。突如襲いくるSMプレイに「もうやめてくれ」「来ないでくれ」と言いながらも来たら来たで安心するどころか恍惚を覚えてしまう片山(大森南朋)に、震災後の我々の「今、揺れた?」(劇中に何度も繰り返されるフレーズ)というほのかな期待の籠ったドヤ顔を重ねてしまい戸惑うだろう。望んでいない振りをして、本当はどこかで望んでいるのではないか?というの揺れさぶりを映像でもって成し遂げたのが『R100』という映画作品なのではないだろうか。