青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

青山真治『共喰い』


106分。この上映時間だけども賞賛したくなるわけだけども、とにかく無駄のないストイックな力作だった。奥行きのある画面と、脚本の持つ土着的・閉鎖的な気配との対比が面白い。ゾッとするようなショットの連続に震えていると、それに同調するように菊地信行が冴え渡った禍々しい音響を聞かせてくれる。田中裕子から発せられる「ズボッ」という音のただならなさときたら。ハイライトと言える雨のシークエンスの画面の贅沢さと凄味は、どこか似たモチーフが顕在する園子温の『ヒミズ』をポーンと遠くへ追いやってしまう。傘を持ったまま疾走する遠馬(菅田将暉)、そして雨に濡れたアスファルトに落ちる灯りの幻想。


暴力を伴うセックスでしか快楽を得ることのできない円(光石研)の血を受け継ぐ遠馬。彼が風呂場で行う自慰の果てに放出された精液が下水として川に流れ込み、その川で育った鰻を、遠馬が釣り、父が喰らう。このヌメっとした液体の循環が、血の繋がりからの逃れられなさを見事に描写している。遠馬目線で語られるナレーションを担当しているのは光石研であり、混乱するわけだが、つまりこれは遠馬と円の同化を表わしている。父の円(まどか)という名前も象徴的だ。彼に汚される事となる千種(木下美咲)は、雨のシーンならば傘(円形)を、晴れていても日傘を常に掲げている。円に支配されているのだ。

また、円(丸)は暴力(血=赤)で染められているわけで、うっすらと日の丸、戦争、天皇制の影を映画にチラつかせる。おぞましいまでの、循環からの逃れられなさ。しかし、終盤において登場するいくつかの円はどうだろうか。元妻の仁子(田中裕子)が閉じ込められる円形の檻、子を宿した琴子(篠原友希子)のアパートの天井からぶら下がる回転するベビーメリー、などにはどこかそこからの”解放”のイメージが託されているように思う。そして、女達の清々しい顔の美しさ。田中裕子は天皇にまで啖呵を切ってみせる。女性のかわいらしさとしたたかさは、使い分けというのでなく共存しているのだ、というのを見事に体現してみせた篠原友希子も素晴らしかった。グルグルとした循環の運動の中で女性を賞賛し、「天皇制」へのサジェスチョンを忍ばせる。これは「北九州サーガー」のみならず、毛色が違う印象の前作『東京公園』(東京の真ん中にある公園は皇居だ)においても実践されている、連続したモチーフだ。ラスト、常に覆いかぶさられてきた女性が男の上に跨るその様は清々しき女性上位っぷりである。脚本がいささか強すぎるような気がしないでもないが、おもしろい映画だった。