青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

大橋裕之『遠浅の部屋』

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親には「プロボクサーになる」と嘘をついて実家を飛び出し、こっそりと漫画家を目指していた大橋先生の18〜19歳当時を描いた自伝漫画。大橋版の『まんが道』である。複雑に絡まった自意識でもってねじれを引き起こすその様は、福満しげゆきの『僕の小規模な失敗』が引き合いに出されるであろう。ドロっとした感情を描きながらも、あちらよりはライト、かつキュートなのは大橋先生の人柄か。『シティライツ』で見せた華麗なトーンワークはなりを潜め、原点回帰のようにスカスカで空白の目立つコマ構成。空っぽのほうが夢詰め込める、ってやつだろうか。そして、画面に呼応するように、青春漫画でありながらひたすらに王道の展開から逸れていく。

俺たちもう終わったんかな 
始まってもないし今後始まることもないだろう

という台詞まで飛び出すほどに、北野武の『キッズリータン』を下敷きにしているのだけども、ボクシングの描写は、試合はおろか練習すらほとんど登場しない。なんせボクサーというのは口実でしかないのだから当然である。しかし、口実でしかないはずボクシングを一応ちゃんと習いに行っている、これが大橋漫画の(というか大橋先生の)おもしろさである。ねじれまくった謎の生活。しかし、そこに描かれている感情に、私はほぼ100%シンパシーを覚え、揺さぶれてしまう。挨拶したけど声が小さ過ぎて相手に聞こえてなくて怒られるとか、同級生との飲み会で話の輪に加われず、

しまった…俺はこういう場に来ちゃダメな人間だということを忘れていた

と心が折れて二次会に参加できない所とか・・・やっとついた漫画雑誌の担当に

大橋くんさあテレビとか観る?お笑いとか
もっとちゃんとお笑い観た方がいいよ

と言われ、言葉も出ないほどショックを受ける所とか。とりわけグッときてしまったのは、宅配の仕分けのバイト中、たまたま「きんさんぎんさん」のぎんさん宛ての荷物を発見してしまうくだり。その発見をどうしても誰に伝えたくて、勇気を振り絞って、会話をした事のないバイト仲間達に話しかける。「よく見つけたねー」くらいのの反応で、別に言わなくてもよかったな、と思いつつも、「伝える事ができてよかった」と達成感に浸るあのシーン。大橋裕之という作家のコアが形成された瞬間なのではないか、とすら思います。

彼女もいりません いろんなことは妄想で我慢します
だからどうか漫画だけは現実にしてください!お願いします!

なんてエモーショナルな台詞もさりげなく登場する。あの特徴的な「目」のタッチに辿りつく過程が明かされるくだりも必読だろう。和田ラヂヲ吉田戦車はた万次郎、小田ドラゴン、清野通といった作家が固有名詞で挙げられ、尊敬やシンパシーを表明する所も大橋裕之ファンとしてはたまらない。


担当のダメ出しから、漫画を書く事が楽しくなくなってしまった大橋青年が、白昼夢の中、少年時代にトリップし、漫画との関係性を再獲得する終盤の一連も素晴らしい。そして、担当との連絡を断ち、実家に戻る決意をする。その帰り道、偶然の花火に導かれ、彼は海を見る。海へ行くつもりじゃなかった。作品の序盤、彼は

ダメだ 気持ちがぐちゃぐちゃになりそうだ
あ、海を見に行こう!!

と自転車でがむしゃらに海を目指す。しかし、辿りつく事はできず、引き返す。そうなのだ、青春というねじれた道は、思うようには進めない。行こうと思っても行けないし、行くつもりがないのに辿りついたりする。だからこその美しさを、1ページで描き切った素晴らしいラストカットだ。