青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

ceroと東京


ワンマンライブ『Contemporary Tokyo Cruise』が9/8に開催決定!しかも恵比寿LIQUIDROOM!更にはアルバム2枚がアナログ化。『WORLD RECORD』は2枚組になるのね!ますます目が離せないよー。


そうそう、ASIAN KUNG-FU GENERATION後藤正文のブログの記事をきっかけに発生した、後藤さんとceroの高城晶平の対話が興味深かった。

訂正前の後藤さんのブログをザッとしか読んでいなかったので、どういう書き方をされていたのか覚えていないのだけど、高城さんは「東京出身だからこそ作れた音楽だ」と言われているように感じてしまったようです。しかし、2人のやり取りで、相互誤解があったとして、後藤さんはブログを追記して訂正しました。今やJ-ROCK界のトップに君臨していると言っても過言ではない御方とは思えぬ素直な語り口とワクワクさせるような筆致でたまりません。

とても豊かな音楽だと思ったの。それはもう悔しいくらい。で、理想郷だって前の日記に書いたのは、都会のことではなくて、この豊かさ(ネット由来ではない)について。HIP HOPもポップスも、ポエトリーリーディングも、サンプリングやカットアップやコラージュとか、あるいは文学も、いろいろな要素が混ざっているんだけれど(俺が感じ得ない何かも)、その編み方が素晴らしいと思った。すごい!って思ったんだよ。俺はレコメンド記事で心が折れかけるほど衝撃を受けたことを告白してる。彼らが(俺の想像では)知的なライブラリに接続する機会を持っていただろうこと、そして、それを土台に創作されたアウトプットが素晴らしいこと(これは彼らの技術だ)、それに感動したんだよね、素直に。で、これは、凄い時代が来るんだなって思った。全部混ざると。そういう人たちが出てきたと。あー、ゼロ年代は終わるわーって思ったの。俺たちは過去の世代にされちゃうなって。笑。一点突破ではなくて、なんていうんだろう、編む力っていうのかな、もう何もかも出尽くしたなんて言われる時代でも、こうやって新しい組み合わせと感性、そしてイマジネーションで面白い音楽を作るひとたちがいるっていうこと。そしてもう、デジタルネイティブって人たちがどんどん出てくるわけじゃない。誰しもがceroのように表現できるわけではないけれど、最早俺が持っていたような「蚊帳の外」というようなコンプレックスは持たなくていい時代になったわけだよね。そういうわくわくを、ceroから先取りして感じたっていうか。まあ、そういう驚きだったんだよね。発明のような、新しいフィーリングだと思った。そして、このバンドに続くように、いろいろなバンドや音楽が現れたら凄くなるなぁって。リスナーとして楽しくなるなって。


Vo.ゴッチの日記「ceroの魅力、東京と地方についての追記。」より

おっしゃる通り、音楽に限らず若い世代の表現者には、所謂「編集力」というのが非常に優れている人が多く、ceroはその先頭バッターだったように思う。後、あらゆるカルチャーを並列に扱えるクールな態度、というのがceroにはあった。個人的な話をすれば、その態度には強烈なシンパシーを抱いてこのブログを綴っている。とにかく、初めてceroを聞いた時に感じた「自分がずっと聞きたかった音楽だ!」という衝撃が忘れられない。それは多分、そのカルチャーのコラージュ感覚に自分と同じ生活の匂いを感じたからなのだと思う。だからこそ、これは東京の音楽だ、新しいシティポップだ、と思ったのだ。『WORLD RECORD』を聞いた時、このブログにこんな風に書いている。

これは僕らのための最新のシティポップだ。細野晴臣鈴木慶一といった巨人たちに挨拶し、フィッシュマンズ小沢健二電気グルーヴ、なんかと戯れ、その元ネタの海の向こうの音楽に思いを馳せたりして作られた音だ。それは東京という街の音楽史であり、僕らのリンスニング体験そのものだったりする。「そうそう、音楽だけじゃないよな」なんて言って映画や文学の香りを目いっぱい吸い込んで毎日のことを歌っていたら宮沢賢治になっていた。それがceroだ。

「ネット由来ではない」という後藤さんの指摘にもうなずく。自分も高城さんと同じ1985年生まれの東京育ちなわけですが、世間で言われるほどに、青春時代にネットの恩恵とかってそんなに受けてないんですよね。きっとceroのメンバーもそうなんじゃないからしら、と思う。YouTubeニコニコ動画もなかった。Amazonがあったけども学生時代にクレジットカードなんて持ってなかったし、SNSもまだまだ黎明期だった。だから、音楽とか映画とか小説とか漫画とかにアクセスしようと思えば、自分の足で歩いた。ライブハウスだとかレコ屋だとか古本屋だとか名画座だとか、疲れたら珈琲を飲む喫茶店だとか、ありがたい事に東京にはそういったものが無数にあって、それたをひたすらクルージングした。ceroの音楽を聞くと、それらが線で結ばれてできた「僕(ら)の東京」が立ち上がってくるような気がしたのです。だからこそ、「東京の街に出てきました」という「東京」ではなく、生活してきた場所、生活する場所としての「東京」を歌うのはceroの高城さんであって欲しいな、と勝手に思っているのです。