青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

高橋栄樹『DOCUMENTARY OF AKB48 NO FLOWER WITHOUT RAIN 少女たちは涙の後に何を見る?』


前作『DOCUMENTARY OF AKB48 Show must go on少女たちは傷つきながら、夢を見る』の作品としての完成度には何歩も劣る、というのが正直な感想だろうか。しかし、見所は多々ある。今作のトピックは「絶対的エース前田敦子卒業」「髙橋みなみ」「恋愛禁止条例」の3つ。前田敦子が前作で魅せた圧倒的なサッドネスは鳴りを潜めているが、彼女のスクリーンへの収まりのよさ、カメラを惹きつける才能というのは存分に堪能できる。脱退までの葛藤が彼女の口から語られるシーンはほとんどなく、その心情は残されたメンバーの証言で構成されている。サッドネスから解放され晴れやかな笑顔を見せる彼女はまるで彼岸の人のようだ。


AKBドキュメンタリーシリーズの大いなる魅力は高橋みなみの存在と言えるだろう。1作目での凛とした決意、2作目での大きな船を率いるキャプテンとしての才覚、「AKBドキュメンタリーとは高橋みなみという神話である」とまでかましたいほどに、AKBにおけるその存在の崇高さは私を惹きつけた。しかし、今作での彼女ははっきり言って不気味だ。「総監督」というポジションの任命と共に、彼女はとうとう自身の個体を失い、AKBというシステムそのものになっている。そんな現象が20歳やそこらの少女の身に起きているという不気味さ。このドキュメントシリーズは、徐々に個体を失い、存在が組織そのものに飲み込まれる高橋みなみのドキュメンタリーでもある。


そして、「恋愛禁止条例」だ。アイドルは「恋愛禁止」と引き換えにキラメキと名声を纏う、という至極真っ当な等価交換の法則のようでもあるのだが、AKB48ではその禁を破った際のペナルティが明確にされていない。最悪の場合は解雇や引退も起こりえる。つまり”死”だ。既に言及し尽くされているのだろうけど、このシステムはアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』に通ずる悲劇性を含んでいる。あの作品における「僕と契約して魔法少女になってよ」というキュウベエの台詞に秋元康の姿を重ねてしまうのは容易く、もしかたらあのアニメ自体がAKB48というシステムを換骨奪胎しているのかもしれない。AKB48のドキュメンタリーというのは、実写版『魔法少女まどか☆マギカ』だ。それがどれだけ壮絶で悲惨か。また、別のタームからの話になるが、あの恋愛の発覚したアイドルへの制裁は完全に「魔女狩り」のそれである。高橋栄樹のカメラは淡々とそれらの事象を捉えているようでいて、実は演出によって印象操作を多分に行っている。平嶋成海が「恋愛禁止条例」によって脱退を宣言するシークエンスには、劇場総支配人戸賀崎の泣き咽び、ファンの声援などを挿入して演出しておきながら、後半に登場する同様に「恋愛禁止条例」のペナルティの対象である増田有華の脱退劇に対しては、ファンからの音声(声援)をあえてOFFで処理する、という無情な演出を施している。更には劇中で「アイドルだって年頃になれば誰だって恋をするといった旨の歌詞のAKBの楽曲を流してみたりする。完全にバカにしている、というかウンザリしているんじゃないだろうか。あのシステムを見つめ、記録し続ける事に。しかし、そのシステムを真っ直ぐに受け入れ、自身の商品価値をしっかりと認識していているかのような松井殊理奈のインタビューが強く美しいのは確かで、高橋栄樹は彼女に柔らかい光線、そして「階段を登る」という美しき運動(この作品におけるほぼ唯一の躍動感)を用意してもいる。映画の中に「恋愛禁止条例」に対するアンサーは用意されていない。その焦点の定まっていなさが、今作の最大の弱点であり魅力だ。