青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

『Cut たまこまーけっとで僕らの日常が輝く!』

Cut (カット) 2013年 02月号 [雑誌]

Cut (カット) 2013年 02月号 [雑誌]

世に蔓延る不条理や悪意を抽出して見せる作品がどうやらはやりらしい。その強度や手法に感心する事はあっても、そういうものはなんだか今の自分の気分ではない。今年に入ってからもそういう作品を観たり、聞いたりして、なんだかズーンと落ち込んだりしていたわけです。本屋で見かけたこの号をチラっと読んだら、『たまこまーけっと』の監督である山田尚子がインタビューのド頭でいきなりこんな言葉を放り込んでいた。

いきなりですけど、わたしは世界を肯定したいんです。

すっごいアホっぽいけど、なんだか、ものすっごくグッときてしまって、それだけでちょっと目頭がウルんでしまったのだ、本当の話。いざ、インタビューをじっくり読んでみると、そこにはまさに今の自分に気分にぴったり寄り添う力強い言葉で溢れていた。抜粋して紹介したい。

世界を肯定することへの憧れがすごくきっと強くて。もともとは斜に構えたところもあるし、ものごとを否定的に見やすい性格をしていると思っていて。そこには「舐められないように」っていう思いもあると思うし、「人生こんなに甘いわけない」とかいろいろあって。だけど、いざ自分の手を通して出すものとなると、核の部分の、ほんとはもっとこういう世界が欲しいっていう、自分が憧れている世界が出てしまうんだと思うんです。よくよく考えたら、みんながみんなを大切にするということにとっても憧れがあるなあというか。あなたが大事だとか、あなたを大切に思っているとか、いつも心配しているよとか、そういうことって思ってるけど照れくさいし言えないことなので。作品を作る時ぐらいは、そういう殻を取っ払ってもいいのかなというような思いでいました。

山田尚子の作品が描くのはハッピーな世界だけど、この子たちも膝を抱えてないわけじゃないんですよね?というインタビュアーの指摘に、

ああ、絶対抱えてるんですよ。そこを見せないと共感してもらえないような作品にはしたくないんですよね。みんな絶対に孤独な時間があって、孤独な思いをしてて。もうどうしようもないぐらいの時もあると思うんですけどね。それを見せたがる主人公であってほしくなくて。作品としてネガティブな部分がないと成立しないというわけでじゃないと思うし、それがあっての幸せを見せていきたいと思うんです。
<中略>
笑ってるからって、その子はただ笑ってるだけっていうわけじゃないですからね。

否定的な要素を抽出して「どうだ!」と差し出されても、そんなもの当たり前じゃないか、前提じゃないか、そこからどう生きるかだろ!?というのが最近の作品を観ていて常々思っている事でして。なら、もう絶対にそこを超えていく表現が見たい。肯定の表現が見たい。そして、そういう強い肯定の中にはしっかりと負の要素が包み込まれているものなのだ。『たまこまーけっと』は多面的に世界を構築し、切り取られたフーレムの外側に流れている時間もしっかり感じさせてくれる肯定の物語だ。しかし、信頼できる作家だ。「無意識的な部分で受ける感情をコントロールしたい」というのが大言壮語に聞こえない、その細やかな空間と色と運動の演出力。それを支えているのは「多幸感」なのだそうだ。

キーワードとして多幸感というのをいつも考えていて。<中略>人のつらい部分とか悲しい場面ってわざわざ見せなくてもいいんじゃないかっていう思いがどうしてもあって。悲しい思いや嫌なことは誰にでもあると思いますけど、わざわざそこに同調していくよりも、それを超えられる手段のほうが作品を作っていく上で大事なのではと。<中略>まあでも、芸大に通ってた頃のスケッチブックとか見ると恥ずかしいぐらいネガティブなんですよ。膝を抱えた女の子がいたりとか、とにかく真っ赤な絵とか。わたしをわかってほしい願望みたいなものが溢れすぎてて恥ずかしくて。ただ、そんなの誰も知りたくないよなって。それを描いていくうちにだんだんわかってきて。色が人に与える影響とか、無意識的な部分で受ける感情をコントロールしたいといったら大げさですけど、作品のそういう側面に興味が出てきて。

幸福感、多幸感って、ある種、トランス状態みたいなことじゃないですか。なので、フッと我に返って、これってどうなんだろうと思う瞬間もあるんですよね。ちょっとした現実逃避みたいな時間に過ぎないのかなあと考える瞬間もあるんですけど。でも30秒後には絶対大丈夫だって。この憧れを避けて通らなくてもいい、どんどん行くべきだろうなと思わせてくれるんですよね。だから『たまこまーけっと』は、人間関係がファンタジックに見えてしまうかもしれないんですけど、でも、そんなことはないんです。<中略>こんなにいい人ばっかりいるなんて、そんなのあり得ないよって思われないように、多幸感を出していこうと思います。やっぱりめちゃくちゃ憧れてるんですよ、こういう世界に。人と人が普通に会話するだけでも憧れます。「おはよう!」って言い合ってあるだけでも憧れますので。『たまこまーけっと』はそういうことだと思うんですよね。

なんか、もうこの人って小沢健二meets小津安二郎meets藤子F不二雄(超重要!)じゃんかよ、とか思ってしまって、付いていこうって決めましたね。脚本・シリーズ構成の吉田玲子も同様のニュアンスの言葉を残していて実に頼もしい。

わたし、井上ひさしさんの劇作品がすごく好きなんですけど、井上ひさしさんあ登場人物の言葉として言わせているんですけど、「世の中には灰があって泥があったりするけれども、自分たちの仕事はその中から宝石を取り出して見せることだ」っておしゃってて。それすごくいいなぁと思っていて。自分の仕事もそうでありたいなってのはちょっと思ってます。

さて、こうも真っ直ぐな言葉を綴る作家陣が作るアニメなんて、臭くて観れたものではないか、と思う方もいるかもしれない。しかし、絶妙なのだ。彼女達が『たまこまーけっと』を描く際に設定した鳥(デラモチマッヅィ)の存在が大きい。あの幸福感溢れるユートピア(商店街)における外部、第三者の視線がある。この距離感とズラしがある事で、ド直球の肯定の物語への、照れとツッコミが排除され、ギリギリのラインでピカピカな状態のまま成立しているように思う。そうそう、あの鳥は何故か映写機にもなるという設定が1話目にして披露されていて、おそらく撮影機能も備えているようなのだ。街ごと彼女達を俯瞰して捉えるロングショット。

あれはあの鳥の視線なのではないか。憧憬の眼差し。