青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

ハイバイ『霊感少女ヒドミ』


映画、演劇などで多用されているモチーフに”ゾンビ”や”幽霊”というのがある。それには多くのメタファーが託されていると思うのだけど、その中でもとりわけ「消化できない想い(=未練)」、「接続不能の悲哀」というのに強く心惹かれてしまう。そんな私にうってつけの物語がハイバイの『霊感少女ヒドミ』である。ヒドミという少女には、三郎、虹郎というあまりにも惨めな死に方をした2人の幽霊が見える。三郎はヒドミの事が好き。でも、死んでいてはどうにもならない。幽霊が人間に戻れる方法は1つだけあって、その条件は「生きている人間に愛される事」らしい。ヒドミに愛されて人間になり、ヒドミと付き合う、それが三郎の願いだ。しかし、三郎は、激しくヒドミに拒絶され、その過程で唯一の友人である虹郎をも失ってしまう。そして、こんな結論に辿り着く。誰かに嫌われたり、失ったりするくらいなら、最初から接触さえも拒んでしまおう。ただ遠くから見つめるだけで、それだけでいい。ヒドミもまたは3年付き合った彼氏に振られた後、こんな結論に辿り着く。他人がどう想ったか、というのも所詮は自分の頭の中だけでの出来事。世界というのは自分がどう考えるか、どう行動するかで、変容してしまうのではないか。であれば、世界を構成するのは私自身の意識そのものではないか。コミュニケーションへの恐怖、そして人は絶対的にすれ違い、孤独である、という絶望に近い諦念。それは確かに真理なのかもしれないし、「ヒキコモリ」を出自とする岩井秀人の作品に通底しているマインドでもあるように思う。しかし、この作品はそんな一種の真理をあらゆる方法でひっくり返してみせる。


幽霊が人間に戻れる唯一の方法何だったか。それは人に愛される事だ。終盤に明らかになるのだが、実はヒドミもかつて三郎が死ぬ間際に遭遇した幽霊であり、三郎はそんなヒドミを「好きだな」と思いながら死んだ。つまりヒドミは、三郎に愛された結果この世に生まれ直したのだ。ラスト、電車から身投げする自分を想像するヒドミ。「私が自殺したら、何かを想ってくれる人はいるのだろうか」とヒドミが考えた時、三郎は人間として蘇る。このあまりに感動的なプロットは、ヒドミと三郎の知り得ぬ所で起きている、奇跡だ。2人の思いは決して報われてはいない。世界はとても不条理で、影に満ちていて暗い。しかし、その暗闇のおかげで我々は安らかに眠る事ができる。これは、岩井秀人が世界の真理に抗おうと提示して見せる希望だ。しかも、できるだけ深刻ぶらず、どちからと言えば低俗な語り口で、深い所まで掘り下げてしまう、その才能には改めて舌を巻く。


この戯曲だけでもう満腹なわけなのだけど、更にムーチョ村松による映像と舞台の強烈なシンクロで瞳を刺激してくれるのです。「カメラ=万年筆」の理論を逆行するかのように、映像を音(物語)の従属者にしてしまうMichel Gondryの傑作PV群にヒントを得たとかなんとか。演劇が映像を喰らう瞬間を観たような気分だ。また、人間視点からの幽霊や、幽霊視点からの人間など、演者と観客、など見る見られる関係性の逆転が、演出の隅々に散りばめられているのも見逃せない。そうそう、劇中ではちょっと反則技だろうと言わんばかりに、キリンジの「エイリアンズ」が大きな音で丸っと1曲かかる。これは泣かないわけないだろー。

泣かないでくれ ダーリン ほら 月明かりが
長い夜に寝つけない二人の額を撫でて
キミが好きだよ エイリアン
この星のこの僻地で 魔法をかけてみせるさ いいかい
そうさ僕らはエイリアンズ
街灯に沿って歩けば ごらん 新世界のようさ