青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

マームとジプシー『ワタシんち、通過。のち、ダイジェスト。』

日曜日に観たマームとジプシーの『ワタシんち、通過。のち、ダイジェスト。』

をどう捉えていいのか、ちょっと悩んでいる。もちろんつまらないとかではないのだけど、待望の新作長編がこれなのかという落胆が実は大きいのだ。ネクストレベルを感じる事が出来なかった、と言いますか、『塩ふる世界。』とか『Kと真夜中のほとりで』とか『飴屋法水さん(演出家)とジプシー』などを作り上げた後の作品とは思えなかった。それ以前の『帰りの合図、』『待ってた食卓、』の完結編のような作品が、今、ここに来て発表されてしまったような感触なのですよね。


小津安二郎の映画に出てきそうなモチーフ、というかチェーホフの『桜の園』という感じのモチーフで、100年の歴史を誇る生家が、解体されてしまう兄弟の話。あえて語られない細部とやや退屈なリフレインによって、ついつい自分の記憶と対話してしまって、亡き祖母の家の事なんて考えて、結構ズブズブと記憶に潜っちゃって、思わず少し泣いてしまったりして。本当に色々な思い出と共に間取りから匂いまで詳細に「おばあちゃんの家」が僕の頭の中に立ちあがっていって、「あぁ、なんかこれって凄いな」「僕の頭の中の演劇だな、これは」とか思ったりする。あの繰り返されるリフレインって映画におけるカメラに収められる、フィルムに焼きつけられる、というような効果があると思っていて、リフレインされると、保存される、生き続けるのだ。今作での役者達のあの運動は、彼らの実存を刻みつけるため、というよりも、あの劇中に肉体として存在しない人達(父や母や祖母や更にもっと前の先祖とか)を浮かび上がられる儀式のように見えた。つまり、あの家の100年の記憶を再生して保存する。いつでも、帰れるように。


というような解釈しかできていないのですけど、これはまぁいつものマームだよなぁ、という感じで、ネクストレベルの要素を見つけられずにいる。ぶっちゃげ自分の審美眼より藤田貴大の才能の方を信用しているので、新作には自分の気づけていない重要な要素がまだまだ隠されているのではないか、と思ったりもしていて。そうなってくると、楽しめなかった事が悔しいなーって落ち込んでます。誰か解説してくれやしないだろうか。でも、やっぱり映画とか演劇とか小説とか音楽とか、記録されたものって何でも、残酷な時の流れに抗う唯一の手段、という側面があって、そこに意識的な作品には最近はバシバシ心打たれる。藤田君はホセ・ルイス・ゲリンの『影の列車』は、ホウ・シャオシェンの『珈琲時光』は観ただろうか、うつくしきひかりやMitchell FloomやThe Caretakerのアルバムを聞いてみて欲しいな、とか色々勝手に思った。