青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

マームとジプシー『ドコカ遠クノ、ソレヨリ向コウ 或いは、泡ニナル、風景』


主催の藤田貴大が大学卒業して間もない頃に上演した作品の再演。リフレインや過剰な運動による肉体への負荷、「演劇やりまーす」というようなメタ構造、音楽の空間への響かせ方、などここ数年のマームとジプシーの方法論を研ぎ澄ました集大成のような作品でした。尾野島慎太朗、吉田聡子、成田亜佑美、召田実子などが勢ぞろいしている作品は久しぶりで、何だかスター集団を観るかのような気持ちになってしまった。


向きを変えながら矢印方向に流れていく運動は、不可逆な時の流れの抗いとして、リフレインにエモーションを点していた。また、時の流れのイメージはトニー・スコットの『アンストッパブル』同様に電車に託されている。「演劇やりまーす」というメタ手法は、今作ではより過剰に多用されている。「この劇が始まってちょうど1時間でーす」「もうすぐ終わりまーす」など、とにかく観客と芝居の距離を生むよう徹底されていた。更には「マグカップから想像しうる事をできる限る思い浮かべてください」と観客に促す。観客は劇に没頭する事を拒否される。自身の日常を舞台上に引きずり上げ、演劇と日常の奇妙な境界に入り込む事になるのだ。観客自身の経験をトリガーとして、劇内の感情をより効果的に爆発させるという手法だろうか。なかなかにハイリスクかつ観客に負荷をかける演出で、これに対しては劇内でも「甘えてばかりの劇団でーす」と自嘲していた。とは言え、今作では見事にそれを成功させているわけだから恐ろしいものである。


記憶を執拗に繰り返し、かつ多角的に描く事で、喪失を再生させる。失ってしまったものに、記憶の中では何度も再会する事ができる。泡ニナル。記憶の泡。日々の泡。そして、今作では猫が喋る。「ニーナさん」というその猫へのネーミングの響きからも連想したわけが、藤田貴大はあの大島弓子と同じ場所にいるのではないか、と少し泣く。喪失も再生も同等の境地で描く、この作家が若干27歳である事に喜びと感謝を。