青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

園子温『ヒミズ』

園子温ヒミズ』を観た。

ヒミズというのはモグラの一種で、太陽を見る事がない。「日を見ず」で「ヒミズ」なのだそうだ。なるほど確かに劇中には太陽の光は映らない。しかし、その代わりに注視したいのがナイトシーンだ。2度付け替えられ、その度言及されるボート小屋の電飾、対岸から川面に映り込む電灯、小屋内でのローソク、と美しい光源が配置されている。ここはおそらく非常に拘った点であろう。陳腐な言葉で綴るなら「暗闇の中の希望の光」という作品の主題にうっすらと共鳴していく画面は素晴らしい。また、この作品はいつかのモチーフが反復して描かれる。この重複は何なのかと考えてみると、冒頭の教師による「住田、がんばれー」を書き変えるための運動であったのだ。同じく染谷将太主演の瀬田なつきによる「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」とリンクする点だ。



ここまでが素晴らしかった点。ここからがダメな点。



史実を引用して日常のすぐ近くに潜む非日常の狂気を炙り出しそれまでの価値観を破壊する、というのが私の園子温の近作での印象。賛否を呼んでいる今作での震災の引用は、もちろん園子温表現者としての誠実さが引き起こした事であり葛藤も当然あったのだろうが、やはり受入がたいものがある。もちろん瓦礫の街並みの強烈な画は、住田の不条理な暴力への抗いの背景として作用し、映画の強度はグッと増したのだろう。しかし、やはり震災は作品の強度を増幅させるために引用していい題材ではなかったのはないかと思う。引用するにしても、せめてそこにうしろめたさが漂えば信用できるのだが、私には画面からそれを感じる事はできなかった。むしろ、でんでん、渡辺哲、吹越満神楽坂恵黒沢あすか、等の園作品オールスターキャストを散りばめる無邪気なエンタメ的手法と同等の感覚で震災というファクターを使用しているようで。更に言えば強度を増幅、と書いたが、正直に言えば震災を前にしては住田・茶沢の抱える問題すら無化してしまったようにも思う。そして我々の価値観も作品を観る前にしてすでに破壊されている。これは古臭い私の映画観なのだが、映画は社会問題など画面の外に寄りかかり過ぎるとダメになる。『サウダーヂ』にも乗れない本当に古臭い私の映画観なのだけど、やっぱりこれはなかなか覆らないのだ。


そして、これも個人的な話だけれど、「青春が画面に焼き付いている!」とかなんとか言われているけれど、私の青春はあんな声高に叫ぶテンションの高いものではなかったのです。なので最もグッときたのは終盤の寝そべりながら住田(染谷将太)と茶沢(二階堂ふみ)が未来予想図を小さな声で語り合う所。そこでの住田の

でもその頃、茶沢さんには大学生の彼氏ができて・・・

という卑屈さこそ、私の小声で囁かれるべき青春だ。泣けた。染谷将太には叫ぶよりボソボソ喋らせたほうがいい。彼の身体と台詞を切り離す演技は実に秀逸だ。肉体を確かに持ちながら所在なさを体現するという矛盾を成し遂げる稀有な役者だと思う。まさに「幽霊のような気分で」