青春ゾンビ

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マームとジプシー『Kと真夜中のほとりで』

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私たちは忘れていってしまう。なんでもかんでも。あの未曾有の大震災の事ですら、忘れ去ろうとしている。いや、そもそも”私”はあの震災に関して部外者だった。もちろん、たくさんの不安や悲しみを感じ、疲弊した。しかし、私はやはりあの震災に対して責任を負えていない。被災者の人々の悲しみを体感できるわけでもないし、被災地に赴きボランティア活動に励む事もしていない。部外者だ。被災地に知人がいれば違っただろうか。いや、同じだろう。私たちはどんどん忘れていってしまう。昨日食べた献立から、亡くなった祖母、自殺した友人、別れた恋人の事まで。どんなことであろうと、記憶は薄れていってしまうのだ。忘れていってしまう事に、いつもどこかしら後ろめたさを感じながらも日常を生きている。


マームとジプシーの『Kと真夜中のほとりで』という作品はそこに抗ってみせる。忘れかけていた事を、忘れてはいけない事を、執拗なリフレインと役者に重度の負担をかける運動で、描写する。繰り返される真夜中。2時間という長尺をかけて、強度を上げていきながら繰り返されても、それでも私たちは忘れてしまい、すれ違っていく。しかし、この『Kと真夜中のほとりで』という作品にはすれ違っていく時、どのような言葉をかければ真夜中を終わらせ、朝を迎える事ができるのか、が刻まれていたように思える。


これまでのリフレインに加えて、前作『塩ふる世界。』で取り入れた爆音の中でプリミティブなダンスという手法を15人という大人数で遂行する。得体の知れない圧倒的なパワーにとにかく感情を持っていかれてしまった。沼田実子が爆発してからの後半は涙が止まらなくなる。何気ない演出にすら涙がポロポロ溢れてしまう。3/11以降の表現作品がほぼ全て「震災後」というファクターで通されてしまう事に嫌気がさしていたのだけど、『あ、ストレンジャー』『帰りの合図、』『待ってた食卓、』『塩ふる世界。』と一貫して「震災後」の世界を描いていた藤田貴大の集大成を見る事で、やっとその違和感がぬぐい取られたような気持ちだ。