青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

青山真治『東京公園』

青山真治『東京公園』があまりに素晴らしい。

視線の映画である。「見る」「見られる」「見つめ合う」という運動で画面が連なっていき、その一見些細な運動がいかに美しいものであるかを改めて教えてくれる。また、井川遥による喪失を補う緩やかな円形の運動が同時に進行しており、画面上にまきおこる美しい循環に惚れ惚れしてしまう。井川遥は「赤の他人→姉→母→赤の他人」という記号で変容していき、それは三浦春馬小西真奈美榮倉奈々の関係性ともシンクロしていく。しかし、「赤の他人である女性を愛すること、それが社会ってもんです」というシネフィルな榮倉奈々のキャラクター造詣と演技が実に素晴らしい。とにかく躍動している。

ジョージ・A・ロメロ監督のホラー映画こそが私にとっての宗教映画なのです

なんていう素晴らしい台詞どこから出てきたんだ。

加藤泰だよ、長谷川伸だよ!

なんてのもある。この作品での女優陣の素晴らしさはちょっと尋常でないのだ。更に、この作品は小津映画の光に満ちている。それは家屋に入るこむ光であったり風であったり、「見つめ合う」事であったり。小津の「切り返しショット」をただのオマージュとして使用するのでなく主題と絡める手さばきが美しい。この作品や黒沢清トウキョウソナタ』に対して、「東京」である必要性を感じない、という批判を目にしたが、そういう人はまず小津の『東京物語』にほとんど「東京」が映っていない、という所から始めてみたらいいと思う。まぁ、それは置いておいて、画面上の光、そして海の凄まじい映り方に驚く。同じくデジタル撮影だった『ゴダール・ソシアリスム』を彷彿とさせる。


終盤、全員の視線が向かい合うと、止まった時間は動き出す。そして、シネフィル榮倉奈々が名作映画のDVDをぶちまける。すると榮倉奈々はゾンビではなくなるし、亡霊であった染谷将太(素晴らしい佇まい!)が消える。ジョージ・A・ロメロと小津が消えていく、と見ていいこのシークエンスに、「映画を撮る」という事を受け継いだ青山真治のケジメのつけ方が隠されている気がする。そもそも映画において「見る」は「撮る」とイコールであるからして、これは「見る」と「撮る」の映画なのだ。ここらへんは後2回ほどスクリーンで見て、また考えたい。「撮る」という行為のエロティシズムや三浦春馬のかわいさなど語りたいトピックは尽きない。とりあえず、素晴らしかった!という事を記しておきたい。