青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

シャムキャッツは”忘れていたのさ”

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そうだよ 僕は忘れていたのさ

シャムキャッツの記念すべき全国流通盤『はしけ』の1曲目を飾っている楽曲は、執拗なまでに「忘れていたのさ」と連呼するのである。一体何を忘れてしまったのかは明言されないのだけど、彼らは、いや、“わたしたち”はたしかに何かを忘れている。わたしはなぜ生まれてきたのか、わたしはなぜ生きているのか、わたしはこれから何をすべきなのか・・・さっぱりわからない。この得体の知れない“欠落感”のようなものは、この世界に生きる人々の共通の切迫感だろう。

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった

とデビュー作である詩集『二十億光年の孤独』に収められたこの詩に若き谷川俊太郎は「かなしみ」と名付けている。しかし、シャムキャッツの「忘れていたのさ」という楽曲には切実さが微塵もない。曲調も構成もとにかくファニーで、ウォーミ―でオリジナル。あっけらかんとその欠落感を歌い上げる。

引き出しを
1つ 2つ 3つ 4つ目の奥と
5つ目の奥にも 6つ目は飛ばして
7つ目と8つ目の引き出しの奥に
大事なものを
入れておきたい気持ちを見つけたけれど
僕は忘れたふりして街に出た

あまつさえ、彼らはその忘れものを見つけても、また“忘れたふり”をしてどこかに出かけてしまうのだ。シャムキャッツのメインソングライター夏目知幸がインタビュー(https://www.cinra.net/report/201910-natsumetomoyuki_kawrk)にて

誰かが仕込んだことには加担したくない

というのが一貫したメッセージだ、という言葉を残している。まるで全人類にプログラミングされたかのような欠落の切実さにも、唾を吐くのだ。これがわたしにとってのロックバンド、シャムキャッツ


甘い気持ちで言うんだよ
ああ渚、これから何をしようが勝手だよ

という代表曲「渚」の一節のように、シャムキャッツが突然解散してしまった。1985年生まれの彼らとは同い年で、その時々に届けられる音源を同世代の現状報告のようにして受け取っきた節がある。“落ち着かないのさ”、 “うまくいってる?”、“GET BACK”、”なんだかやれそう”、”AFTER HOURS”、“Friends Again”、“このままがいいね”、“完熟宣言”・・・楽曲やアルバムのタイトルをこうして並べるだけで、この10年間の試行錯誤がありありと思い浮かぶと同時に、どれほどまでにシャムキャッツに勇気づけられてきたことかを思い知らされる。とてもとても寂しくて、言いたいことは山ほどあるけど言葉になっていきません。なのでただ「お疲れ様でした」という言葉を残したい。またいつか、中年の現状報告を聞かせて欲しいなって思います。

最近のこと(2020/07/04)

iPhoneの充電を忘れたままに眠ってしまい、アラームが鳴らず昼まで眠ってしまう。腹ペコだったので、外に出て近所の気になっていた喫茶店で日替わりランチを食べる。ハンバーグと目玉焼きと海老フライ。どれも決して美味しくはないけども、懐かしい味でほっこりする。近所にはまだまだ気になるお店がたくさんあり、こんなにも食べるのに困らない土地に住んでしまうと、もう東京の郊外に戻れる気がしない。

腹ごなしに散歩に出る。休日のビジネス街を彷徨っていると、土曜日にもかかわらず営業している1000円カットのお店を見つけた。ちょうど髪も伸びていたので、思い切って入ってみる。品のいいマダムが丁寧にカットしてくれ、満足な仕上がり。「髪切った?」と聞かれるのが苦手なので、だいたいいつも「長さを1センチ短くして、あとはそのまま軽くしてもらう感じで」と注文するのだけど、その意図を一発で汲み取ってくれた1000円カットの美容師ははじめてかもしれない。もう今や東京には1000円カットなどほぼ存在せず、そのほとんどが1500〜1800円に値上がりしているのだけど、こちらはきっかり1100円のお会計だった。髪を切り店を出ると雨が降り出してきたが、そのまま散歩を決行する。先週と同じく足が自然と船場センタービルに向かっていく。町田洋の漫画で突如としてトレンド入りしてしまった船場センタービルだが、現地にはそんな浮かれた気分は皆無で、どんよりと平常運転だ。漫画にも登場した“船着き場のベンチ”がこちら。いい青なのだ。人が座っていないベンチを探すのが難しいくらい利用者が多い。あの漫画の「眠る直前に“世界の真実”に辿り着くも、目が覚めるとそのすべてを忘れてしまっている」という挿話が、先日書いたシャムキャッツ「忘れていたのさ」についてのエントリーともリンクしていているように思える。センタービルを抜け出し船場の博労町というエリアを彷徨く。Twitterでオススメしてもらった「ZABOU」という洋服屋さんを覗いてみた。チャンピオンのT1011のネイビーとHAV-A-HANKのチョコミントカラーのバンダナを買った。T1011なんて何枚あったっていいのだ。バンダナをもちろん頭や首に巻くわけではなくハンカチ代わりです。

寺の前にオフィスビルという珍しい建物を見つけた。ちゃんと寺への導線を確保してあるのがクールだ。家の近くまで戻り、その途中でビルの5階にある「古書象々」という古本屋を見つける。芸術や児童文学、さらにはオカルトやエログロなども抑えた品揃えも抜群だけども、本の状態がまた素晴らしい。岩波文庫などは新品かと思うほどだった。辻征夫の詩集の初版がいつくか置いてあって、思わず手が伸びるところだったが我慢。中野重治室生犀星』(筑摩叢書)、寺田寅彦『柿の種』(岩波文庫)、J.L.ボルヘス『伝奇集』(岩波文庫)を購入。『柿の種』は東京の家にあるけども、200円だし、読みたくなったので買ってしまった。ビルを出て少し歩いて、傘を忘れたことに気づき店に戻る。傘立てにビニール傘が2本あって、どちらが自分のものかわからない。悩んでいると、お店の人がちょうど出てきて「汚いほうがわたしのです」と言ってくれたので助かりました。

紀伊國屋書店」で石黒正数の『天国大魔境』(講談社)の4巻を買う。5月に出ていたようだけども、すっかり見落としていた。性差をはじめとしてあらゆるものを溶かして物語を紡いでいて、すごい境地だなと溜息をつく。トリュフォーの『ある映画の物語』(草思社文庫)も少しずつ読み進めているのだけど、とにかく示唆に富んでいて、付箋を貼りまくりたい気持ち(けど、付箋がない)。

そんなこんなで土曜日は暮れていく。映画館に行きたいのだけども、なかなか気力が湧いてこない。神戸か京都まで足を運んで、サウナに入り身体の凝りをほぐしたいなとも画策しているのだけど、いつになったら実行できるのだろう。

最近のこと(2020/06/30~07/03)

仕事が忙しくて日記に時間を割けないので、火~金を雑に、ダイジェストで書き残す。火曜日。朝起きるとPUNPEEの新しいEP『The Sofakingdom』がリリースされていたので聞きながら通勤する。とても良くて、朝から元気になれた。「夢追人」のKREVA「瞬間speechless」(『心臓』からもう11年・・・)のサンプリングにやられた。PUNPEEは背の高い人の隣にいるのがよく似合う。車で外回りをして、お昼に「天下一品」の枚方店に立ち寄って、こってりラーメンを食べた。大阪でも随一の濃さを誇る名店で、ひさしぶりに食べ終えて「ウップ」となる天下一品に出会えた。店を出ると強い雨粒。慌てて車へと走り、濡れた身体を拭きながらiPhoneTwitterを眺めていると、「シャムキャッツ解散」の文字が。「嘘でしょ」と車内で独り言を漏らし、しばし呆然としてしまう。インタビューを読んでいるとなんかバンドとしてあんまりいい感じじゃなさそうだなとは思ってはいたのだけど、シャムキャッツだけは解散しない道を選んだのだと勝手に思い込んでいた。

Virgin Graffiti

Virgin Graffiti

Amazon
最後のアルバムとなってしまった『Virgin Graffiti』(2018)にも、はぐれた仲間の声を乗せて歌うのだ、という決意が迸っていたし。しばらく運転する気になれなくて、かといってシャムキャッツを流して感傷に浸るにも嫌で、NiziU「Make you happy」のMVを観て、現実逃避。30%オフになった刺身のパックと豆腐をスーパーで買って帰る。家に帰り過去10年間に自分が書いたシャムキャッツについての文章を読み直してみたけども、名文は見つからなかった。「マイガール」をSMAPの「胸騒ぎを頼むよ」と強引に結びつけるエントリーは文体が謎で、たった4年前なのに自分が書いたものとは思えない。エントリーの最後に「いやいや再結成してるから、SMAPシャムキャッツも」という書いてあるのには、ドキリとさせられた。トーチwebで公開された町田洋のひさしぶりの漫画が、船場センタービルについてのエッセイだった。つい先日訪れたばかりなので驚く。これがまた素晴らしい作品で、少し泣いてしまった。たしかにあそこには不思議な磁場がある。


水曜日。7月のはじまり。シャムキャッツの解散を引きずっている。「GET BACK」という気持ち。この日も枚方市の周辺を回った。あまりにここらへんを走っているので、目新しかった「ひらかたパーク」の観覧車もすっかり見慣れてしまった。「ひらかたパーク」というのは、東京でいうと「としまえん」くらいの位置なのか、はたまた「後楽園ゆうえんち」か。ひらパー兄さん、というフレーズは関東にも届いていて、ブラックマヨネーズ小杉とV6の岡田准一が歴任しているのだけど、岡田准一枚方市の出身であるらしい(小杉は京都)。岡田君って関西弁のイメージがないというか、あんまり素で喋っているところの印象があまりない。家に帰ると注文していた掛け時計が届いていた。グレー地で針が綺麗な水色。小ぶりでかわいくて、とても気に入りました。あとはサイトーウッドのティッシュケースとマガジンラックと傘立てが欲しい。しかし、どう考えてなくても暮らせるものなので諦める。この日はスーパーでカツオのお刺身と出汁巻き卵を買って食べた。疲れていたので早々に寝てしまったのだけど、この夜インターネット上に橋本奈々未(ex乃木坂46)が舞い降りていた。数枚の写真がSNSに上がったというだけなのだけど、リアルタイムで体感したかったような、別にそうでもないような。


木曜日。名前は忘れたけど白身魚の刺身のパックと「明治エッセルスーパーカップ超バニラ」のミニ6個入りの箱を買う。スーパーから家まで少し距離があるので、6個一気に溶けてしまう恐怖と闘いながら家路に急いだ。刺身をノンアルコールビールで流し込みながら野球中継を眺める。ヤクルトスワローズ村上がサヨナラ満塁ホームラン。ホームラン確信歩きの風格がとても20歳には思えない。筒香の代わりに日本の4番を担って欲しい。『勇者ああああ』(テレビ東京)が抜群におもしろかった。しずる、はんにゃ、フルーツポンチが2010年からリモート中継という体で、タイムパラドックス大喜利。金曜日ロードショーを3週間彩ったバックトゥザフューチャーへのオマージュ。リモート収録じゃないと出せないグルーヴ感の最良の形でした。


金曜日。RYUTistはいつでも最高。仕事でこれでもかというほどに限りある社交性を消費したので、帰る頃にはヘトヘトに。まともな食事を摂る気がしないけども甘いものが食べたくてセブンイレブン今川焼きの冷凍食品を買う。電子レンジで2個チンして食べ、餡子の甘さの恍惚と共に眠りに就く。慣れない土地での暮らしにわたしは疲れている。

最近のこと(2020/06/29)

梅雨の中休みということで、曇り空。しかし蒸し暑く、低気圧のせいなのか1日中頭が痛い。これならいっそ雨に降られたほうがいい。B.J.Thomas「雨にぬれても」が妙に気分で、最近はよく聞いている。Burt Bacharachがご存命(92歳)ということに人生で何回も驚いている気がする。Wikipediaに載っていたのだけど、百貨店で「雨にぬれても」が流れるのは、外で雨が降り出したという店員への合図なのだそうだ。

この日も車で外回り。取引先の大阪人に気持ち良くなってもらおうと、「大阪は東京に比べて感染者が少ないですねー」とついつい話を振ってしまう。そうすると、だいたい「大阪には頼りになるリーダーがいますから」といった誇らしげな笑顔が返ってくるのだ。大阪の街の吉村知事ひいては維新への妄信的な信頼を肌で感じ、寒気がする。そんなこと微塵も思っていないのだけども、仕事だから仕方あるまいと、引きつった笑顔で同意を述べる。こんな風にしてわたしの心は少しずつ音を立てて死んでいくのです。

隣の課に私より3年早く東京から大阪に異動した若手がいるので、少し話してみた。やっぱり東京に戻りたい?と聞いてみると、帰りたいと即答する。理由を尋ねてみると、「行きつけのラーメン屋とか恋しくて」とのことで、「くだらなすぎて、会話する気にならないわ」と笑った。しかし、暮らしたい街の理由なんて案外そんなものなのかもしれない。向い席の先輩が飲み終えたコンビニ珈琲のカップにペットボトルのお茶を注いで飲んでいた。氷がもったいないかららしい。貧乏くさいなと思うも、「なんか気分ええやん」という笑顔がかわいらしいな、とも思う。

職場からの帰り道、スーパーに寄る。カツオのたたきと豆腐(綿)とサントリー天然水の2リットルのペットボトルを買った。和菓子のコーナーでわらび餅のパックの底に貼りついた製造シールをひっくり返さないようにと懸命に下から覗き込んでいる女性を見かける。カロリーがどれくらいなのか知りたいのだろうか、それとも糖質だろうか。日々の営みというのはなんてかわいらしいのだろう。わたしはこんなにも簡単に人をかわいいと思う。帰宅して録画してあった『乃木坂工事中』(テレビ東京)を観ながら、刺身をつまむ。齋藤飛鳥さんがディスクユニオンのTシャツを着ていて、脳内が痺れた。これはかわいいというより、尊いという感情。

待てど暮らせどインターネットが開通しない。こんなに繋がらないわけないので、何かを間違えている気がするけども、調べる気力が沸かない。しかし、『愛の不時着』の続きは観たい。あのドラマの影響で韓国カルチャーがこれまでよりグッと好きになっていて、J.Y.PARKさんの関連とかBLACKPINKのMVとか観漁っています。

坂元裕二『スイッチ』

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だんだん不思議な夜が来て あたしは夢の中へ
堕ちていく天使は 炎を見出してく


JUDY AND MARY「LOVER SOUL」

JUDY AND MARYの楽曲の挿話が『最高の離婚』(2013)を彷彿させる・・・などと列挙していたら限がないほどに、これぞまさに坂元裕二の集大成といった質感のドラマであった。社会から零れて堕ちていく人々を天使として描いてきた坂元裕二のドラマを象徴するように、ドラマは高層マンションの吹き抜けを上空から下降していくショットで始まり、天使であるところの主人公のひどく拗らせたナレーションから物語を進行させていく。そして、リーガルサスペンスとしながら、冒頭で真の犯人は星野七美(石橋静河)であると明らかにされ、ドラマのジャンル、そして善/悪の倫理感が混濁していく。善/悪のスイッチのシームレスな切り替えこそが、人間なのだ。『カルテット』(2017)ではそれを、「白黒つけられないグレー」と表現していたが、今作で言うならばカルピス。高濃度なカルピスの原液を水と氷で少しずつ薄めながら飲む様は、人間は誰しも原罪を抱えて生まれ、それと折り合いをつけながら生きていくということのメタファーのよう。もしくは青森名物である味噌カレー牛乳ラーメン。2つの色どころか、あらゆるものが混ざり合っている。


集大成という言葉を持ち出したくなってしまうのは、劇中内に登場する『ラブジャンクション』の存在も大きいだろう。坂元裕二自身の最大のヒット作である『東京ラブストーリー』(1991)をセルフパロディしてみせているのだ。いや、むしろ“書き換えた”と言っていいかもしれない。あのトレンディなラブストーリーの主人公たちに、バッグボーンを書き足してみせる。2人が恋に落ちる背景には、痛ましいトンネル崩落事故があって、そこには政治家の利権が関わった手抜き工事が関わっている・・・といったように。ラブストーリーを綴る際のこの筆さばきの変化を説明するには、是枝裕和との対談において語った以下の言葉の引用がふさわしいだろう。

男女がキスをしている後ろで車が燃えている写真を見たんです。ラブストーリーでも男女だけで成立するわけじゃない。社会で起きている色んなことが作用するし、逆に男女の間で起きていることが社会にも作用している。

テレビドラマの執筆を重ねる中で、ラブストーリーにすら密接に作用する社会というものに目を向けた坂元裕二は、イジメ、幼児虐待、少年犯罪、女性差別、震災、貧困・・・といったこの世界の負の側面をドラマに組み込んでいくこととなる。そして、ある一つの結論に辿り着く。ドラマのみならず朗読劇、演劇といったここ数年の作品群においては、“そのこと”を作劇に繰り返し忍びこませている。『スイッチ』では以下のように。

直「今回だって赤の他人じゃん。赤の他人に共感して、勝手な正義を振りかざして」
円「でもさ、ほっとけないじゃん。
  私自身のことだもん。
  誰かがどこかで嫌な思いするのって全部繋がってて・・・
  Wi-Fiみたいに繋がってててさ
  <中略>彼女がされたことって、わたしたちがされたことじゃない!」

この「彼女がされたことって、わたしたちがされたこと」というのが、坂元裕二がドラマで社会を描き続けた中で辿り着いた真理だ。そんな最も伝えたいであろう言葉が、カラオケボックスの中で、店員に邪魔されながら交わされていくという“抜け感”に、坂元裕二の余裕を感じる。いや、もしかしたらあまりに何度も同じことを書き続けていることに少しの照れがあるのかもしれない。少し列挙してみよう。

誰かの身の上に起こったことは誰の身の上にも起こるんですよ。川はどれもみんな繋がっていて、流れて、流れ込んでいくんです。君の身の上に起こったことはわたしの身の上にも起こったことです。


『不帰の初恋、海老名SA』より

ありえたかもしれない悲劇は形にならなくても、奥深くに残り続けるんだと思います。悲しみはいつか川になって、川はどれも繋がっていて、流れていって、流れ込んでいく。悲しみの川は、より深い悲しみの海に流れ込む。


『不帰の初恋、海老名SA』より

世界のどこかで起こることはそのまま日本でも起こりえる、と実証されました。メキシコで起きている問題は、日本の食卓にも影響を及ぼすのです。


カラシニコフ不倫海峡』

この世界には理不尽な死があるの。
どこかで誰かが理不尽に死ぬことはわたしたちの心の死でもあるの。


カラシニコフ不倫海峡』より

俺もあいつも同じ道歩いてて、1人だけ穴に落ちたんだ。
どっちが落ちても不思議じゃなかった。
あいつがしたことは、俺がするはずだったことかもしれないんだ。


『anone』より

これほどまでに何度も何度も言葉を変えてまで、坂元裕二は伝えようとしている。「なぜわかろうとしないのだろう。そこで傷ついているのは、すべて“わたしたち”だったかもしれないのに」と、距離のある出来事に黙り込んでしまう無関心に警鐘を鳴らしているのだ。


この“わたしたち”という連帯の響きは、『スイッチ』において、「離れたいけど、離れられない」という不可分な関係性の円(松たか子)と直(阿部サダヲ)というキャラクターを生み出すこととなる。「LOVER SOUL」の歌詞に倣うなら

あなたと2人で このまま消えてしまおう
今 あなたの体に溶けて ひとつに重なろう

というような関係。2人は恋人関係を解消した後も、仕事で顔を合わせ、さらには互いの恋人を紹介し合うという奇妙な会を催してまで繋がり続ける。そんな “離れても、再び戻ってくる”という2人の関係を表すように、ドラマは円環のイメージで彩られている。中華料理店の回転テーブル(人に話す価値のある蘊蓄ではない)、時計(止まってる時計と1分狂ってる時計)、観覧車(入口と出口が同じ)、ピザ(ゴレンのつくものはない)・・・そして、何よりも松たか子の役名が“円(まどか)”なのである。

社会からひどい目に遭わされた人は
死ぬ前にすることがあるでしょ?
怒るんですよ
鮭だって時には熊を襲うでしょ!?

というのは『anone』(2018)の台詞だが、この世界の理不尽さに対しては、反撃の狼煙を上げてよいというのがここ最近の坂元裕二作品の特徴だ。そして、それはたとえどんなにイリーガルなやり方であろうとかまわない。鳩に刑法が適用できないのと同じことだ、というように。『anone』においては”偽札作り”であったそれは、この『スイッチ』では”殺人”である。円は弁護士でありながら、理不尽な死に対して、明確な殺意でもって抗おうとする。哀しみで結びついた“わたしたち”の心が死なないように。

なんで親を殺された彼女が逮捕されて、殺したほうがヘラヘラ笑ってるの?
警察も検察も何もしないんだったら、誰かが代わりにやるしかないでしょ?
わたしがやらなかったら誰がやるの?
誰もやらないことは誰かがやるしかないでしょう

殺人を決意した円が「やるしかないな、ね?」とベランダの鳩に問いかけるシーンは出色。「鳩にふるう暴力はどんなにふるってもふりすぎということにはなりません」とまで言ってのける女が、理不尽な死の前では苦手な鳩とさえ連帯してみせるのだ。


そんな円の倫理観の歪みに、眉をひそめる者もいるかもしれない。しかし、芸術表現における美しさや素晴らしさと倫理というものは両立しないのだ。直や曽田(井之脇海)が宮崎駿の最高傑作だという『空飛ぶゆうれい船』(1969)のビル破壊シーンはどうだろう。そこにいくつかの死が含まれていようと我々はその破壊にカタルシスを覚えるはず。同じく直と曽田が宮本茂の最高傑作であるとする『ピクミン』は、無数のピクミンの死を積み上げてクリアしていくことに快感を覚えるゲームだ。いや、もっと小さな悪行でもいい。遺族年金を使ったカラオケでのデュエット、自転車を2人乗りしながら警官に「イェーイ」と親指を下に向けてみせる円(出口夏希)のあの表情はどうか。音を立ててカルピスを飲むという行為でもって結び付く直(醍醐虎太郎)と円の交感。あれらの美しさの前に、道路交通法やマナーを持ち出して咎めるのが正しさなのか。いや、むしろあれらの行為は罪の香りがするからこそ、美しさが際立っていると言っていい。余談にはなるが、直の少年時代を演じた醍醐虎太郎が、同じく倫理観の欠如を批判された美しき物語『天気の子』(2019)の主人公の声を担当していた役者、というのはただの偶然ではないように思う。

いい人は天国に行ける
でも、悪い人はどこにも行ける

という台詞まで飛び出すわけだが、何も坂元裕二は犯罪を推奨しているわけではない。人間は愚かで醜く悲しい生き物。そのことに目を背けずに、それでもその欠落を埋めようと他者と結びつこうとする“懸命さ”がこそ、人の愛おしさだ。どんなに大きな迷惑をかけられようとも

君が(あなたが)いる人生で
おもしろくてよかった

と互いの存在を肯定し合い、セックスの代わりに一つの毛布に包まる直と円。

僕はみなさんのちゃんとしていない所が好きなんです
たとえ世界中から責められたとしても
僕は全力でみんなを甘やかしますから

という『カルテット』の台詞を思い出すとともに、今作の言葉を借りるのであれば

アンパンは潰れてるやつの方が美味しいのに

これが、恋と社会を描き続けてきたドラマ脚本家・坂元裕二の、人間に対する認識の現状報告なのである。