青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

大賀俊二『映画 おむすびまん』

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さる日のTBSラジオ『ハライチのターン』で話題に上がっていた30周年*1を記念した『それいけ!アンパンマン』の人気投票。結果の詳細が気になり、サイトをじーっと眺めていると、ふと思い出した。私は"おむすびまん"が大好きだったのだ!いや、ビックリマークを持ち出すほど意気込んだ話ではないのだが、「アンパンマンしょくぱんまんカレーパンマン」の御三家にいまいち思い入れを持てなかった幼少期の私は、どこかニヒルなおむすびまんを推しに選んだのであった。先の人気投票では第23位と微妙な意味にランクインしているが、おむすびまんは実にかっこいいヒーローなのだ。そして、おむすびまんは私の映画原体験でもある。『それいけ!アンパンマン ばいきんまんの逆襲』(1990)という映画シリーズの第2作目、これがおそらく初めてのスクリーン体験。本編と同等、もしくはそれ以上に同時上映であったおむすびまんのスピンオフに心奪われた。「ひとくち村のこむすびまん」「おばけ寺のたぬきおに」という10分程度の2つの連作なのだけども、約30年ぶりに観返してみたところ、これがなかなかにいい。

あっしの名前はおむすびまん
以後お見知りおき申し上げるでござんす

こんな口上で映画は始まる。股旅姿に三度笠のおむすびまんは、流浪の旅を続ける渡世人だ。決して一カ所には留まらない。悪事に悩まされる市井の人を助けては、「あっしには旅の夜風が肌に合う」と挨拶もそのままに、そっと立ち去っていく。任侠映画や西部劇がトレースされたこのフィーリングがとにかくかっこいいのである。アクション映画としても秀逸で、おむすびまんが六尺棒を振り回して、実に小気味よく動く。林原めぐみ演じる"こむすびまん"はどこまでもソーキュートであるし、満腹寺ラーメン、ぶた地蔵、なめくじおばけ、"ひとくち村"という食べられることが前提なネーミング・・・細部がいちいち豊かで楽しい。とは言え、何を差し置いても観て欲しいというほどの作品ではないのですが・・・思い入れが強いので、つい記事にしてしまいました。



<参考サイト>
www.anpanman.jp

*1:初めて気づいたのだが、私はアンパンマン第一世代なのですね

プロフェッショナル仕事の流儀「 生きづらい、あなたへ~脚本家・坂元裕二~」

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「私 この人のこと好き 目キラキラ」みたいなのは
そこには本当はない気がするんですよね


バスの帰りで雑談をして
バスの車中で「今日は風が強いね」とか
「前のおじさん寝ているね」「うとうとしているね」とか
そんな話をしながら
「じゃあね」って帰って行って 家に着いて
一人でテレビでも見ようかなって思ったけどテレビを消して
こうやって紙を折りたたんでいるときに
「ああ 私 あの人のこと好きなのかもな」って気が付くのであって 

小さい積み重ねで 人間っていうのは描かれるものだから
僕にとっては大きな物語よりも
小さい仕草で描かれている人物をテレビで見るほうが
とても刺激的だなって思うんですよ

番組で発されたこの言葉に、坂元裕二の書くテレビドラマの魅力が端的に言いまとめられている。何の意味も、何の価値もないように見えることに、“本当のこと”は詰まっている。それを教えてくれるのが坂元作品だ。このドキュメンタリー番組のトーンも、この坂元裕二の言葉に導かれるようにして構成されていく。撮影の開始は、こんな会話からだ。「中華屋で紹興酒を飲みたかったのだけども、グラス1杯5,400円で注文できなかった」・・・実に些細なエピソードであるが、その人の価値観であったり、“生きる”ということの質感であったりが、それとなく浮かび上がってくる。そして、カメラはあらゆる生活の跡を映し取っていく。パンツを畳む、チョコレートをつまむ、ヒップホップを聞く、南アルプスの天然水を常備している、煙草を吸う、ガソリンスタンドでポッカの缶コーヒーを飲む、娘のお弁当のためにキッチンで納豆春巻きを揚げる、スマホゲームに興じる、歯を磨く、うたた寝する・・・このドキュメンタリーが捉えているのは、「生活を営む人」としての坂元裕二の姿だ。生活を慈しむことができる人だけが、普遍的な愛を紡げるのかもしれない。



番組の編集にはいささか疑問がなくはない。「『Mother』からやっと書きたいものが書けるようになった」といったような、わかりやすいストーリーテリング坂元裕二は徹底的に嫌う。しかし、この番組は発言の節々を繋ぎ合わせることで、初期のトレンディドラマや『西遊記』や『トップキャスター』といった作品を、あたかも「本当は書きたくなかった」かのように演出してしまっている。これはまずい。先日献上されたばかりの『脚本家 坂元裕二*1においても、下記のような発言が残されている。

「『Mother』以前、『Mother』以降」とよく言われますけど、自分では書いてる筆圧は変わってないし、『西遊記』や『トップキャスター』も大事な子供たちだから、そっちはダメでこっちはいいって言われると、そんなのただのジャンルの違いでしょって思って、若干気分悪いですね(笑)。

案の定、放送終了後に坂元裕二のインスタグラムにて訂正が入っていた。とは言え、現代を代表するテレビドラマ作家の素顔が垣間見れる貴重な番組であることには間違いない。個人的に気になったポイントを少しだけ書き記してみたい。



<優しくないお兄ちゃん>

ずっと優しくないお兄ちゃんだったからね
弟が追いかけてきているのが分かっているのに僕は遊びに行って
道路渡ったら 弟が「お兄ちゃーん」って追いかけてきて
車走ってきてバーンって飛んだんですよ うちの弟が
そのときの光景はねもう今でも忘れられないですね
弟ともう1回やり直したいなあと思って
弟とスキー行ったりしても何かうまく話せなかったりして

『またここか』(2018)という舞台作品を坂元裕二に書かせることとなる、弟とのエピソードが披露された。推測するに、このエピソードからもう一つ物語が生まれている。『それでも、生きてゆく』(2011)である。妹の面倒を頼まれていたにも関わらず、友達と遊びに行ってしまい、妹が殺人事件に巻き込まれてしまう兄の物語だ。坂元裕二の後悔から派生した2つの物語は、それぞれに悲しい存在を生み出している。三崎文哉(風間俊介)と近杉祐太朗(吉村界人)という2人の殺人者。彼らは、共に「してはいけないと思うと、せずにはいられなくなってしまう人間」だ。

それが大事なものであるほど、か弱いものであるほど、思うんだよ。
駄目だ駄目だ、しちゃいけない。
あのお腹を叩いちゃ駄目。あのお腹を蹴っちゃ駄目。


『またここか』より

それでも、生きてゆく』を執筆しながらも、三崎文哉という人間をわかりきれなかった、と坂元裕二は過去のインタビューで語っている。彼を救い切れなかったことが、どこかで心に引っかかっていたのではないだろうか。三崎文哉が重ねられた、『またここか』の近杉祐太朗という存在を、劇中において“優しくないお兄ちゃん”が救う。

おまえ字書ける?
書けるなら今日から頭に浮かんだことは、全部ノートに書き留めな。
やっちゃたら駄目なこと、人に迷惑かけそうになった時、そういうの書いて、全部そこに、そこに吐いて、小説みたいにするの。
俺はずっとそうしてきたし、おまえにも出来るよ。
<中略>
前だけじゃない。後ろにも行ける。小説に書くのは二つのこと。本当はやっちゃいけないこと。もうひとつは、もう起こってしまった、どうしようもなくやりきれないことをやり直すってこと。そういうことを書く。そこに夢と思い出を閉じ込める。それが、お話を作るってこと。


『またここか』より

「何が心の病だよ。人間が心なんかに負けるかよ」と言い放つ“優しくないお兄ちゃん“が紡ぐ物語が、この過酷な現代を生きる私たちに与えられている。そのことをこの上なく幸せに思おう。


<移り行く壁の色>

撮影期間中に、仕事部屋の壁の色が変わっていくことにお気づきだろうか。撮影初日は白かった壁が、突然、何の説明もなく部屋中にビニールが張られ、少しずつ美しいエメラルドグリーンに変わっていく。なんて編集泣かせなことをするのだろう。しかし、これも坂元裕二なりの「日常を捨てない」という態度なのだろう。そして、慣れ親しんだテレビドラマというフィールドから飛び出し新しい可能性に挑戦する心情がトレースされているようにも思える。最後に、その新しく生まれ変わった壁の色が、『カルテット』での夢のような4人が暮らすあの別荘の壁と同じトーンを湛えていることに気づいた時、じんわりと瞳が潤んだことを告白しておく。
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*1:ちなみにこの本には仕事場の本棚がしっかり写っています。気になる方はぜひ

水曜日のダウンタウン「MONSTER HOUSE」3話

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これぞ、2018年のベストキスシーン。なんて醜く、なんて美しいのだろう。クロちゃんは「愛されたい」と叫ぶ獣だ。まるでこれまで誰からも愛されたことがないかのようだ。その欠落を埋めるようにして、どこまでも貪欲に愛を求めている。蘭ちゃん*1とのキスを成し得た時のあの狂おしいまでの歓喜、あれはもはや単なる性欲を飛び越え、自らの”実存”を初めて認識したかのような振る舞いではないか。

好きだよ、本当にもう・・・
俺は知らなかった
もう・・・本ッ当に
本ッ当わかってるようで
わかってなかった・・・
めちゃくちゃ好きだよ

忘れんなよ
忘れんなよ、俺
忘れんなよ
キスしたよ、忘れんなよ

観ていて、胸の奥がたまらなく苦しくなってしまった。多分、私たちもまた、クロちゃんと同じように寂しくてたまらないのだろう。本当は醜い存在なのだろう。「変な汗出るのはなんでしょうね」というたむらけんじ松本人志の言葉がそれを的確に表現している。獣になれない私たち。社会で適応していくために、私たちが必死で押し殺している部分を、解放し切っているのがクロちゃんという獣なのだ。


しかし、とんでもないシリーズが始まってしまったものである。「愚かで醜く、ゆえに愛おしい人間」という古来からあらゆるストーリーテーラーが言葉の限りを尽くしてきたテーマ。クロちゃんと藤井健太郎は、どこまでも敷居を下げながら、それを表現し尽くしてしまうのではないだろうか。



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*1:ミューズとしか言いようがない

Dr.ハインリッヒ『M-1グランプリ 2018 準々決勝』

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今年観た漫才で1番美しいと思った。イワシが炒飯を食べる時に胸鰭を使うとことか、「種がいっぱいあるんやろなー」とヒマワリの顔を覗くとことか、「まぁ焼きそばやわ」とか、「みんな何かを作るメンバー」とか、「この世はすべてはマル」とか、あらゆる細部がツボなのです。発声から立ち姿まで全てが素晴らしいな、と思うのだけども、やっぱりネタが凄い。あくまで2人の人間の"しゃべくり"でありながら、圧倒的な幻想感に包み込まれてしまう。いとしこいし師匠がつげ義春の漫画を漫才として喋っているみたいだ。文学的な発想が、数学的に編み込まれて、様々な円形が綺麗な循環を描いていく。気がつけば「チュドーン」と、"生命の誕生"とでもいうような質感に辿り着いていやしないか。よくよく聞き返せば、冒頭から"トンネルを抜ける"というフレーズが配置されていることに驚愕し、コンクリートの割れ目はもとより、「短かい目になった鉛筆の持つとこを長くする銀色のやつ」にすら"貫通"のイメージが託されていることに震えた。他のネタにしても"実存"をテーマにしたものが多く、双子というほんの少しだけ数奇な運命に生まれついた彼女達なりの、「自己と他者」への思考ノート。そんな珠玉の漫才が生み出されている。


ちなみに今年の3回戦のネタも秀逸なので、ぜひ。何も失ってないのに、何かを取り戻そうとしている。

さくらももこ『コジコジ』

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誰がなんと言おうと、『コジコジ』はラブコメなのである。いや、もちろん『コジコジ』のジャンルは一つに断定できるものではない。たとえば、「コジコジは哲学である」という論調はいまだに根強い支持を得ている。

コジコジだよ
コジコジは生まれた時からずーっと
将来もコジコジコジコジだよ

第1話に登場したこのフレーズが、流れを決定づけた。確かに『コジコジ』というのは、"実存"をめぐる物語なのだ。登場人物の誰もがそのアイデンティティが揺らいでいる。飛べない鳥泳げない魚の半魚鳥である次郎君、記憶喪失のブルガリア人のジョニー、天使なのに不細工な自分に悩む吾作、天使なのに神様の事を知らないルル、正月という行事への自信が揺らぐ正月君、「オレってなんで頭に花なんて咲いてるんだろう」と疑問を持つ頭花君、メルヘンの国になぜか存在する悪者のブヒブヒ、三日月の夜だけ容姿と性格が変貌してしまうスージー、自分達が漫画のキャラクターと知り恥ずかしくて死にたくなるまる子と友蔵、勝手に沸騰してしまうやかんの頭を持つやかん君・・・
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そんな登場人物の中において、コジコジの放つ「あなたはあなたでしかない」というメッセージは確かに深く刺さるものがある。しかし、「コジコジは哲学である」としたところで、では「哲学とはなんぞや」という話になってくるわけで、一旦置いておこう。そもそも1話のオチは、「コジコジコジコジだよ」という言葉に感化され「次郎は今も将来もずっと次郎なのさ」とダメな自分に開き直る次郎くんが

バカ言ってんじゃないよっ
ずっと次郎じゃ困るんだよっ

と、母親に猛烈なビンタを食らうというものである。真理めいたことを語るやいなや、すぐさまそれを壊してもみせるのがさくらももこという作家なのだ。コジコジが"宇宙の子"であることが発覚する作品のハイライト的7話「手紙を書こう」のオチはこう。

コジコジ「次郎君 昨日コジコジも手紙出したよ」
次郎君「えっ キミが一体誰に出したんだよ」
コジコジ「おとうさん おかあさん」
次郎君「へーキミの両親て何ていう名前?ガジガジとかっていうの?」
コジコジ「えーーとねぇ
     何だっけ?
     う・・・う・・・"う"のつく名前なんだ」
次郎君「う?うし?うま?うめぼし?」
コジコジ「ええと・・・ええと
     ・・・たしか・・・"う"の他に"ち"もつくような名前・・・」
次郎君「うんちっ」
コジコジ「もう少し長い名前だったよ」
次郎君「じゃあ宇野千代
    "う"と"ち"がついて少し長いぞっ」
コジコジ「うのちよ・・・ 
     そうかもっ!!」
次郎君「ホントかよ・・・
    じゃあ まァ母さんは宇野千代として・・・
    父さんは?」
コジコジ「・・・えーと
     なんか・・・
     チューっていうような名前」
次郎君「・・・ネズミかな?」
コジコジ「ネズミかも」
次郎君「母さんが宇野千代なら父さんがネズミなわけないよ」
コジコジ「じゃあ何?」
次郎君「宇野千代は人間界のえらい作家だから父さんも人間界の有名人だっ
    ひょっとして・・・荒井注!?
    キミ 宇野千代荒井注の子供だから 
    すげー個性的だったんだ」

あまりの会話の掛け合いの見事さについ長々と引用してしまった(コジコジと次郎君の会話は常に優秀な漫才なのだ)。このように、さくらももこはしっかりと照れ、ボケる。


そんな照れ屋のさくらももこの作品の中で、もっとも、ラブ要素が高い長編が『コジコジ』なのだ。実のところ、『コジコジ』は恋愛を巡るエピソードが非常に多い。ペロちゃん/やかん君、ハレハレ君/ジョニー、スージー/吾作、スージー/ロバート王子、テルコ/ふうた、おりひめ/ひこぼし、正月君/ひな子/バレンタイン君・・・いくつものラブストーリーが平行して描かれている。そこで登場する、ハート射抜かれるパンチラインの数々をいくつか紹介してみたい。



まずは、ナゾ怪人のスージーに恋に落ちている天使・吾作の独白。

なんでオレは天使なんだろう
こんなブ男なのに
ただでさえ恋愛なんてできないのに
ましてやたまたま好きになった人とは敵なんて
<中略>
結ばれないとわかっていてもスージーのことが知りたい
スージーは毎日どんな暮らしをしているんだろう


続いて、「ひこぼしは他の女と浮気している」と嘘を吹き込まれたおりひめの台詞。

愛する人がそうしたくてしてる事ならそれでいいの
愛は全てを認める事だと私は思うから
<中略>
わたしゃ待つよ
あの人が来ようが来まいが待つよ
今年も来年もずーっと待ってるよ
何万年も愛し合ってたんだから
ハンパじゃないんだからね・・・


正月君の恋のエピソードから。正月君のお見合い相手であるひな子さんには200年付き合った元カレのバレンタイン君がいる。ひな子のことを諦め切れないバレンタイン君は何度も2人の恋を邪魔するのだが、最終的に2人を祝福する。

ひな子・・・キミと正月君がうまくいくように祈るよ
それがオレの仕事だからなァ
あーあ
因果な仕事だよなァ
バレンタインデーの恋の守り神なんて・・・
でも ひな子・・・
キミが200年間オレを愛してくれたお礼に
今日はキミの恋を誰の恋よりも1番にオレは祈るよ

バレンタイン君ありがとう
あなたと愛し合っていた日々があったこと
私忘れない・・・


最後に、2年前に一度だけ出会った風の子供ふうたのことが忘れられないてるてる坊主のテル子の台詞。次郎君やコロ助に「もう忘れたいほうがいい」と言われるテル子。

でもね・・・
ある日なんとなく空を飛ぶ小鳥を見てたら
小鳥は空の事をただ大好きで空を飛んでて
空が自分の事を好きかどうかなんて別に気にしてなくて・・・
それでね・・・わたしも
ふうた君の事が大好きな気持ちは
小鳥が空を大好きな事を同じくらいうれしい事だから
ふうた君がもし
わたしの事を忘れても
わたしはふうた君の事を大好きなままでいたい
って思ったの


どうだろうか。さくらももこのラブストーリー作家としての筆致の強さが少しでも伝われば幸いだ。彼女の描く恋愛は、種族間や性別を軽々と超え、モブキャラクターであろうと、悪役であろうと、当たり前のように恋愛のステージに登らされる。そして、この世に発生したすべての恋をすべからく肯定してみせる。それが報われようが、秘められたものであろうが。そんな態度が瑞々しく結実した『ほのぼの劇場』シリーズの「陽だまりの粒」という傑作短編がありますので、未読の方はぜひ(『ちびまる子ちゃん』コミックス8巻に収録です)。さくらももこという作家の魅力は、恐ろしいほどにミクロな感情の機微を底意地悪く拾いあげる筆致と、すべてを包みこむようなマクロな愛の視線を持ち合わせている点にある。傑作『ちびまる子ちゃん わたしの好きな歌』のあとがきにこんな言葉を残している。

ちびまる子ちゃん』ではまる子の世界をクローズアップして描いていますが、平行して動いているあらゆる世界のことを私は忘れないでいようと思います

この感覚である。カメ大明神に好きなものを問われたコジコジが答える。

じゃあ全部
全部が一番好き