青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

『LOOPY!鹿皮』雪おばけにまつわる物語

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雪おばけは冒険に出たいと思っていました。だけども、外は陽射しがとても強かった。それはもう、雪おばけの全てが溶けてしまいそうなほどに。あまりの暑さに一度はお家に逃げ帰ってきた雪おばけ。それでも諦めきれない彼は、自らの身体にサンスクリーンを塗りたぐり、眩しい方角へと再び冒険に繰り出すのでした・・・

そんな物語がこの"snow strange"には込められているのだそうだ。それを聞いた私は、何やら奇妙なまでに感動してしまった。日焼け止めを塗って、南へと歩み出す雪おばけ。憂鬱なブルーにふりかけるひとさじのユーモア、跳ね返るポジティブなフィーリング。ポップカルチャーはこうでなくちゃ!と思ったのだ。そして、「もっと世界を面白がらなくては」という気持ちがムクムクと蘇ってきた。疲弊しているのは、もうおしまい。"雪おばけ"をポケットに忍ばせて、私もアドヴェンチャーへと繰り出したいと思います。



そんな風にして、私にエネルギーを沸き起こした"雪おばけ"を生み出したのは林嘎嘎と陳幸運という2人のデザイナー。台北の中山エリア*1で『LOPPY!鹿革』という雑貨ショップを営んでいる。この"雪おばけ"のみならず、お店に置かれたすべてのアイテムに物語が宿っているのだそうだ。
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中でもお気に入りは、「歩く時はしっかりと前を見つめよう、後ろはコウモリ夫人が守ってくれるよ」という物語が添えられた丸型バックだ。私が「スキル併せ持つかわいこちゃん©プチャヘンザ!」であったらな、これを背負っていそいそと街へ繰り出していたことでしょう。あと、気になっているのはこの「満腹クマさん」だ。
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一体、彼にはどんなストーリーが用意されているのだろう。




ちなみに『LOPPY!鹿革』の入口ではイカした構図のビートルズのポスターと野球をする猫が出迎えてくれる。
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さらに、店内には手塚治虫藤子・F・不二雄さくらももこといった作家のアイテムが各所に潜んでいる。3年前に訪れた時も書いているが、異国の地に兄弟を見つけたような気分になってしまうのである。そういえば、お店を代表する人気アイテムであるキョンシーも一種の"ゾンビ"である。
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青春ゾンビ、腐乱しながらもまだまだ這いつくばっていきたい所存でございます。まずは、月3本くらいのペースで更新を目指して頑張ります。

*1:台北においても非常に文化的感度の高いエリア

芝山努『ドラえもん のび太と夢幻三剣士』

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ドラえもん のび太と夢幻三剣士』(1994)という映画がある。決して出来のいい作品ではない。1980~90年代におけるドラえもん映画の黄金期と照らし合わせてみると、そのストーリーテリングには雲泥の差があると言っていい。おそらく今後もリメイクの対象になることはないだろう。原作者である藤子・F・不二雄も「失敗作」とはっきりと語っているほどで、作品は構成力に欠け、物語の細部の繋がりは曖昧だ。しかし、その不明瞭さが故、今でもカルト的人気を呼び続けてもいる作品でもある。個人的にも妙に心惹かれるものがあって、折に触れて観返している。

現実の世界は、どうしてこんなにつらくきびしいのだろう・・・。

こんな、あまりにもブルージーのび太の嘆きから物語は始まる。寝坊や遅刻でママや先生に怒鳴られ、ジャイアンスネ夫にバカにされる。大好きなしずかちゃんにすら冷たくあしらわれてしまう。夢の中では完璧な自分、しかし現実の世界ではあまりにも情けない。ならば、夢の中だけでもかっこいい自分でありたい!とドラえもんに泣きつく。なんとも後ろ向きな導入。血沸き肉躍る冒険を求めて、宇宙や魔法の世界に飛び出すのではなく、辛い現実に絶望したのび太が、「せめても・・・」と夢の世界へと没入していくのである。当然、ドラえもんのび太を諭す。

夢の世界に逃げたって
さめたらみじめになるだけだよ!
あぁ情けない・・・
もっと現実の世界でがんばらなくちゃダメだよ

実に辛辣だ。しかし、のび太の家出騒動*1ドラえもんは考えを改め、「夢の世界で自信を取り戻せば、現実の世界でやる気になるかも」とのび太を自由気ままな夢の世界へと誘うのである。



ときに、タケコプター、どこでもドア、スモールライト、もしもボックス・・・ドラえもんがそのポケットから出すそれらは、いくらなんでも便利すぎやしないだろうか。あらゆる法則を無視したかのようなその利便性は、世界に大きな無理を強いているはず。であるから、均衡をとるようにして、ひみつ道具はバグを起こし、ときに”邪悪なもの”を世界に生み出していく。その関係性はディズニー映画における夢のようなイマジネーションの代償としてのヴィランズたちのあり方を想わせる。たとえば、『のび太の魔界大冒険』(1984)での「もしもボックス」によって出現した大魔王デマオン、『のび太のパラレル西遊記』(1988)において「ヒーローマシン」から抜け出した牛魔王・・・その系譜の最終形態が今作での妖霊大帝オドロームドラえもん映画シリーズの中において、その様相を含めて極めて凶悪なヴィラン。そんな困難な敵に対してのび太たちは、ある種の責任を負いながら挑んでいく。その在り様が、上記に上げた3本の映画をとても魅力的なものにしている。

映画ドラえもん のび太の魔界大冒険 [DVD]

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のび太と夢幻三剣士』の最大の特徴はやはりそのダークな色調と不明瞭さだろう。オドロームの攻撃により燃え尽きて塵になるという、のび太としずかの死の描写は今なお語りぐさだ。オドロームを生み出したのは、「気ままに夢見る機」に使用する特製カセット「夢幻三剣士」だ。このカセットの特徴は以下のように説明されている。

この夢は強いパワーをもっているので、あまり長時間みつづけると現実世界に影響することがあります。

このカセットはこれまでの夢とちがって”第二の現実”を創造する、画期的新製品であります。

つまり、このカセットにおける"夢"とはパラレルワールドもしくは別宇宙であり、それらは相互関係を持ってしまう。そして、おそろしいのが「気ままに夢見る機」に設置された"かくしボタン"だ。

ドラえもん:かくしボタンをおす!!
のび太:かくしボタン?
ドラえもん:つかわないつもりだったんだけどね。
      このボタンをおすと・・・・夢と現実とが入れかわるんだ。
      つまり、夢が現実の世界になって、
      今ここにこうしていることが夢になるんだ。

夢と現実がシームレスに入れかわることで、2つの境界は曖昧になり、その世界は入り混じっていく。のび太たちは夢宇宙でのオドロームとの闘いを決し、夢から覚めて、現実世界へと戻ってくる。しかし、翌朝のび太としずかが向かう学校の様相が、以前とはすっかり異なっていることを示すショットで映画は終わる。
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実に不気味な印象を残すラストなのだが、この夢と現実がイコールになるかのように入り混じった状態こそ、のび太が望んだものなのだ。のび太は映画の序盤にして、すでに夢と現実の区別が不明瞭である。

のび太:きみはしらないけど・・・、ゆうべはあぶないとこだったんだよ。
     それをぼくがたすけたんだよ。
しずか:なあに?人の顔みてニタニタして!
     変なのび太さん!
のび太:いいよ!そのうち本当のぼくの姿がわかるさ。

スネ夫:ハハハハ。のび太はおくびょうだなあ。
のび太:そっちこそ!
    ゆうべは青くなってふるえてたくせに。
ジャイアン:なにねぼけてんだよ
のび太:ほんとだぞ!!

のび太は誰もが自分と同じ夢を見ている、と思い込んでいる。いや、それどころか夢と現実があきらかにごっちゃになっている。この世界の常識に当てはめれば、はっきり言ってほとんど狂人の様相だ。しかし、一つの冒険を終えた時、世界はのび太の望む方向に書き換えられている。前述の学校の描写はもちろんであるし、最後のしずかとの会話を抜粋したい。

のび太:惜しかったなぁ。もう少しでいいとこだったのに・・・・・。
しずか:おはよう、のび太さん。
のび太:あ、おはよう。
    ゆうべさ、しずかちゃんの夢みちゃった。
しずか:あたしも、のび太さんの夢みたわ。
のび太:え、どんな夢!?
しずか:それはないしょ!
    でも、のび太さんかっこよかったわよ。

のび太の世界からの"狂い"が改善されるでもなく、狂ったままに肯定されてしまうエンディングがあまりに感動的だ。そもそも『ドラえもん』というのは、のび太のダメさが改善されるような作品ではない。のび太という”わたしたち”を重ねずにはいられぬ少年が、あらゆる冒険を経ながらも、成長することなくダメなままに未完に終わったからこそ永遠に愛され続けているかもしれない。


*好きなところ追記
・月に針を刺すシルク(しずかちゃん謎の二役)
・月に空気を積めてぷかぷか浮かぶノビタニヤン)
・スネミスの美味しそうな食事
・トリホーのルックと超越者ぶり(映画版だと未来デパートの職員もトリホー)
・スピルバーガー監督の『ジュラシック・プラネット』



関連エントリー

*1:実際は裏山で気絶していただけ

E・L・カニグズバーグという児童文学作家

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E・L・カニグズバーグという児童文学作家*1に夢中だ。『クローディアの秘密』『魔女ジェニファとわたし』『ベーグル・チームの作戦』『ティーパーティーの謎』・・・・どの作品を読んでも夢のように素晴らしい。

クローディアの秘密 (岩波少年文庫 (050))

クローディアの秘密 (岩波少年文庫 (050))

魔女ジェニファとわたし (岩波少年文庫)

魔女ジェニファとわたし (岩波少年文庫)

ベーグル・チームの作戦 (岩波少年文庫)

ベーグル・チームの作戦 (岩波少年文庫)

ティーパーティーの謎 (岩波少年文庫 (051))

ティーパーティーの謎 (岩波少年文庫 (051))

これから折に触れて読み返すであろうという確信でいっぱいだ。カニグズバーグの筆致の秀逸さを端的に伝えるため、ちょっとばかりの引用を許して欲しい。

むかし式の家出なんか、あたしにはぜったいできっこないわ、とクローディアは思っていました。かっとなったあまりに、リュック一つしょってとびだすことです。クローディアは不愉快なことがすきではありません。遠足さえも、虫がいっぱいいたり、カップケーキのお砂糖が太陽でとけたりして、だらしない、不便な感じです。そこでクローディアは、あたしの家出は、ただあるところから逃げ出すのではなく、あるところへ逃げこむのにするわ、と決めました。どこか大きな場所、気もちのよい場所、屋内、その上できれば美しい場所。クローディアがニューヨーク市メトロポリタン美術館に決めたのは、こういうわけでした。


『クローディアの秘密』より

図書館は、ひそひそ話をするところです。ジェニファは、まるでやかんからでる湯気みたいなシュシュという音で、すばらしく上手にひそひそ話ができました。


『魔女ジェニファとわたし』より

パーティーの土曜日は、目をさました瞬間から、ついてないことばかりでした。すべてのことが。第一に、その日はバタースコッチの日でした。バタースコッチの日は、わたしはいつも気分がよくないのです。町にはキャンディ工場がありました。そこでは、毎日、香りのちがうものをつくっていました。町じゅうが、においのついた空気をすっていたわけです。オレンジは気もちがいいし、チェリーやライムはほとんど気になりません。ハッカはおいしいくらいです。けれどバタースコッチのにおいは息苦しいのです。


『魔女ジェニファとわたし』より

クーキーはふり返ってにこっとした。クーキーが笑うと、顔に夜明けが来たみたいだ。はじめは細い光のすじだが、すぐに顔じゅうにその光が広がる。夜明けを告げるみたいだ。たしかに口は大きすぎるけど。
ぼくは袋に手をつっこんで持って来たものを出した。クーキーが手をのばし、その手の出し方を見て、ぼくは何気なく持ってきたものをするりとかの女の人さし指にはめた。
「ベーグルだよ。」ぼくはいった。「食べるものだよ。」
クーキーはぼくを見上げて、じっとぼくを見ながら人さし指に通したままのパンをかじりはじめた。


『ベーグル・チームの作戦』

美術館への家出、図書館でのひそひそ話、バタースコッチの日の息苦しさ、指に通されたままかじられるベーグル・・・あぁ!こんな描写が一ヵ所でもあれば、それはもう忘れ難い本になってしまうわけだが、おそるべきことにカニグズバーグの文学はこういった素晴らしさで満ちている。脳みそが痺れるようにウットリとしてしまうではないか。



カニグズバーグが書く物語の舞台はえてして都市の郊外に設定されている。そして、中流家庭で何不自由なく育つも、自意識を複雑にこんがらがらせてしまった子ども達が主人公だ。彼女たちについて、訳者の松永ふみ子はこう記している。

生まれた時から快適な環境に慣れ、それをあたりまえのこととして受けとっている、洗練された、都会的なちょっと気むずかしい子どもたちです。情報たっぷり、知識いっぱい、めったなことにはだまされません。<中略>人生についてまだ何も知らないのに、何でも知っていると思いこんでいる。

カニグズバーグの初期の3作の舞台は1960年代。しかし、そこに登場する子ども達は、現代の”わたしたち”にどうにもそっくりではないか。大人が子ども向けの作品に夢中になっていると、「それは子どもの為のものですよ」なんてしたり顔で指摘してくる人がいる。そういう人というのは”子ども”であった自分というのを、現在の自分とはまったく別人か何かのように考えているのかしら。児童文学に描かれている”切実さ”が、大人にとっては「取るに足らないこと」だなんて思うのは大間違いなのだ。

どうしておとなは自分の子どものころをすっかり忘れてしまい、子どもたちにはときには悲しいことやみじめなことだってあるということを、ある日とつぜん、まったく理解出来なくなってしまうのだろう。(この際、みんなに心からお願いする。どうか、子どものころのことを、けっして忘れないでほしい。)

こんな言葉を作品に記したエーリヒ・ケストナーは、自らの作品の対象を「8歳から80歳までの子どもたち」としている。また『トムと真夜中の庭で』でおなじみのフィリパ・ピアス

私たちはみんな、じぶんのなかに子どもをもっているのだ

と書いている。児童文学を手に取るのに遅すぎるなんてことは決してないのである。「わたしたちの物語」として、ケストナーを、カニグズバーグを読もう。



『クローディアの秘密』という大傑作の影に隠れがちだが、『魔女ジェニファとわたし』もまたとりわけお気に入りの1冊だ。主人公はエリザベスとジェニファという2人の女の子。共に友達はおらず、学校から孤立した2人だ。「エリザベスは転校してきたばかりで、ジェニファは学校で唯一の黒人である」という外的な要因もあるのだけれど、物語はそこにフューチャーしない。彼女たちを”ふつう”から遠ざけるのは、半端に高いIQとプライド、そして魂の潔癖さだ。他の子たちのように、親や先生の前だけいい子のふりをするなんていうのは簡単なことだが、彼女たちにとっては、そんなインチキこそが1番許せない。うまくやれないが故に社会に対して常に悪態をついていく。出会うべくして出会った彼女たちは、学校や家とは別の空間に、自分たちだけの法則を作りだしていく。そこでは、ジェニファは魔女で、エリザベスは魔女見習いなのだ。ジェニファの指導のもと、エリザベスは立派な魔女になる為に修行に励んでいく。はじめの1週目は毎日なま卵を食べ、2週目は毎朝お砂糖ぬきのコーヒーを飲む。その後も、焼かないホットドック、なまのタマネギ、茹でないスパゲッティ・・・何やら不完全なものばかりを食べさせられる。見習いを経て、免許皆伝を受けるまでの修行は更に過酷だ。破ってはならない13ものタブーがある。

タブー(1)  ねむるとき、けっして枕を使わないこと
タブー(2)  けっして髪の毛をきらないこと
タブー(3)  夕方の午前七時三十分いごは、けっしてものをたべないこと
タブー(4)  けっして電話をかけないこと
タブー(5)  日曜日に家の中でくつをはかないこと
タブー(6)  けっして赤インクを使わないこと
タブー(7)  けっしてマッチをすらないこと
タブー(8)  けっしてまっすぐのピンや針に手をふれないこと
タブー(9)  けっして結婚式で踊らないこと
タブー(10) ベッドのまわりを三度まわるまでは、けっしてベッドにはいらないこと
タブー(11) けっして病院とおなじがわの道をあるかないこと
タブー(12) けっして朝食まえに歌をうたわないこと
タブー(13) けっして夕食まえに泣かないこと

果たしてこれらを守ることに何か意味があるのだろうか。それが”ない”のである。しかし、この意味のなさがあまりに素晴らしい。その無意味さは、息苦しい社会の価値観を無化させる。これらの修行には意味がないのでは?ということをエリザベスが指摘すると、ジェニファはこう答える。

もしあんたが意味のあるのことばかり求めているようなら、昇格はまだ早いわね

2人の世界においては、無意味さにこそ価値がある。エリザベスは、渋々とこの意味のないルールを忠実に守り、やがて「みんなとちがうこと」を楽しむようになる。寂しさの原因だった孤立が、彼女の大きな力になっていくのだ。はみ出し者たちが、社会一般のルールとはかけ離れた法則の中で、ゆるやかに肯定される。カニグズバーグは”ふつう”とは違うことを許す。いや、そもそも”ふつう”なんてものは存在しないのだ、と言い切るのである。

おかあさんは、わたしのいわゆる「社会性」につてい心配していました。ということは、わたしがお友だちをつくるべきだというのです。おとうさんは、ふつう体温は三十六度五分だけど、三十六度でも健康な人もいる、なんていっていました。その人たちにとってはそれがふつうなのです。「だから、なにがふつうだなんて、だれにもいえるもんか。」と、おとうさんはいいました。

こういった物語に勇気づけられる人がどれほどいることだろう。株、出世、レクサス、ゴルフ、ガールズバーに興味がないおじさんがいていい。そんな社会に疲れたおじさんにも、児童文学は有効なのだ。

*1:化学者、教師、主婦を経ての児童文学作家という異例のキャリアを持つアメリカの作家。2013年に83歳で亡くなっている。

練馬区立美術館『サヴィニャック パリにかけたポスターの魔法』

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東京都の練馬区立美術館でレイモン・サヴィニャックの大きな展示会が始まった。正直なところ、「いまさらサヴィニャックかぁ」なんてことも思わないでもなかったのだが、これが大いに楽しんでしまった。サヴィニャックの弾けんばかりのポップネスはとびきりに楽しい。そして、そこにまぶされたシニカルとユーモア、物事の本質を大胆かつ繊細に捉えるイメージの跳躍は今なお有効で、観る者の心を掴んで離さないのだ。


練馬区立美術館は西武池袋線中村橋駅*1から徒歩5分。都心を外れた立地だからか、日本でも人気の高いサヴィニャックにも関わらず、客足はまばらだ。おかげで、じっくりと展示を眺めることができて、実に快適。その上、都心の美術館以上の充実した内容なのである。リトグラフによる美しい発色のポスターは、3メートル以上のビックサイズのものまで!貴重な原画やデッサン画を含む展示は全部で約200点。2011年にギンザ・グラフィック・ギャラリーで開催された『レイモン・サヴィニャック展』が50点とのことなので、今回の展示の規模の大きさがうかがえるだろう。作品の時系列順ではなく、「動物」「嗜好品」「子ども」といったようにテーマごとに区切られた展示形式は、集中力をグッと高めてくれる。練馬区立美術館で4/15(日)まで開催、その後は宇都宮、三重、兵庫、広島を巡回するそうです。


サヴィニャックがポスターとして手掛ける媒体は、石鹸、ソーダ水、チョコレート、自動車、冷蔵庫・・・といった大量生産される商品だ。それらの広告はやはり大量に刷られ、街のいたるところに貼られていく。今回の展示には、サヴィニャックのポスターが貼られたパリの光景を収めた写真もいくつか内包されている。ちょっとしたエスプリを効かせることで、無機質になりかねない景観を鮮やかに彩っている。改めて魅力を感じたのは、サヴィニャックのその都会的なセンスだ。そのアーバンな感性は、資本主義を謳歌する上で発生する”うしろめたさ”のようなものを解放してくれる。
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たとえば、このマギーブイヨンのポスターはどうだろう。自らの半身で煮込んだスープの香りを実に満足気に嗅ぐ牛。私たちが飲むスープは牛の死体の上に成り立っているのだという本質をつきつけられつつも、その牛のわざとらしいほどの”誇らしさ”にどこか救われてしまう。まったくをもって人間都合の勝手な解釈なのだけども、そのオプティミズムは都市を生き抜く秘訣なような気がしないでもない。というのは大袈裟かもしれない。やはりサヴィニャックの魅力は底抜けの明るさだ。
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果たしてこんなにも楽しいポスターに触れて、ペリエを飲みたくならない人なんているのだろうか!?まったくウキウキしちゃうぜ。

*1:準急や急行は止まらない。余談だが、かつて保坂和志はこの街で暮らしていて、彼のデビュー作『プレーンソング』は中村橋での出来事を綴った小説なのだ。また槇原敬之山田稔明(GOMES THE HITMAN)も若かりし頃、中村橋で暮らしていたらしい。と言っても、中村橋が文化度の高い街なのかというと、決してそんなことはない。本屋は1軒あるかどうかだし、昔はいくつかあった古本屋もすべて潰れてしまった。しかし、この街には素敵な図書館と美術館があります。2つは合築されていて、その間には動物モチーフの大きなアートが点在する緑地スペースがある

今井一暁『ドラえもん のび太の宝島』

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川村元気という海賊による略奪。奪われたのは、藤子・F・不二雄ドラえもん』、ロバート・ルイス・スティーヴンソン『宝島』という児童文学が誇る偉大なフォーマットだ。今作のベースにスティーヴンソンの『宝島』が置かれる必然性がまったく理解できなかった。

映画ドラえもん のび太の南海大冒険 [DVD]

映画ドラえもん のび太の南海大冒険 [DVD]

ドラえもん のび太の南海大冒険』(1998)は、のび太が『宝島』を夢中になって読み、宝探しに強い憧れを持つところから始まる。しかし、今作は出木杉への対抗心から、宝探しを始めようとするわけで、なんというかピントがズレている。果てには、地球エネルギーという大きなSFに飛躍し、『宝島』のマインドは希薄になっていく。また、親子の絆の描写に大きく時間を割いたゆえ、キャプテンシルバー率いる海賊の書き込みがないがしろにされている。どうして現代に海賊がいるのか、何故あんなにも高度な文明を有しているのか、過去の遺産である財宝の価値・・・そういった”すこし不思議(SF)”に対して納得のいくハッタリを埋め尽くすことに注力する、それが藤子・F・不二雄という作家だった。その作業こそが、わたしたちを日常から非日常へと連れ出すための「どこでもドア」だったのではないだろうか。それが設計されていない今作におけるSFはどうにも足元がおぼつかない。



川村元気を戦犯に指名してしまうのはフェアではないかもしれない。わたしたちの”感動したがり”が、あらゆるエンターテインメントを薄っぺらいものにしてしまっていて、その余波が『ドラえもん』にも及んでいるのだ。『STAND BY ME ドラえもん』(2014)はその最たる例だろう。

大人は絶対に間違えないの?
僕たちが大事にしたいと思うことはそんなに間違っているの?

当たり前だろ・・・だって僕はパパの息子なんだから

今作においても、こういった如何にもな台詞にどうしても違和感を覚えてしまう。ここに挙げた以外にも、所謂メッセージ的なものが飛び交い、混線し、そのすべてを味気ないものにしている。そして、感動的な台詞に辿り着くためにお膳立てされた物語は、どうしても貧しい。そんな言葉などなくとも、のび太たちの太古の世界や遥か彼方の宇宙での血沸き肉躍る冒険における決断やアクションの数々は、家族や友人の尊さ、自然や動物への敬意、その他多くのことをわたしたちに伝えてきたはず。



今作は歴代興行収入を更新する勢いの大ヒットを飛ばしているらしい。その一因として星野源による主題歌『ドラえもん』が貢献しているそうだ。たしかにいい曲で、劇場で子どもたちがサビを一緒に口ずさんでいる光景には思わず涙腺を刺激させられた。しかし、やはりこの曲も、わたしたちの”感動したがり”が作り出してしまったようなところがあって、『ドラえもん』という作品の魅力の一要素でしかない”感動”がふんだんに拾い上げられている。

機械だって 涙を流して
震えながら 勇気を叫ぶだろう

中越しの過去と 輝く未来を
赤い血の流れる今で 繋ごう

何者でなくても世界を救おう

う、うるせぇ。ここで、星野源の『ドラえもん』においても間奏でサンプリングされる『ぼくドラえもん』の歌詞を眺めてみよう。作詞は藤子不二雄だ。

あたまテカテカ さえてピカピカ
それがどうした ぼくドラえもん
みらいのせかいの ネコがたロボット
どんなもんだい ぼくドラえもん
キミョウ キテレツ マカフシギ
キソウテンガイ シシャゴニュウ
デマエ ジンソク ラクガキ ムヨウ
ドラえもん ドラえもん
ホンワカパッパ ホンワカパッパ
ドラえもん

そうこなくっちゃ!と震える筆致である。「それがどうした ぼくドラえもん」「ホンワカパッパ ホンワカパッパ ドラえもん」、こういったマインドが貫かれたドラえもん映画の新作が待たれる。