青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

伊藤万理華×福島真希『はじまりか、』

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昨年末に開催された個展「伊藤万理華の脳内博覧会」にて公開されたショートムービー『はじまりか、』がYouTube上で閲覧が可能となった。掛け値なしに素晴らしい8分30秒なのだ。伊藤万理華によるファンやメンバーに対するストレートな愛のメッセージをして*1、「彼女のファンには感涙ものだろう」という感想もわかるのだけども、この『はじまりか、』という作品はなにかもっとこう普遍的な魅力を兼ね添えていやしないだろうか。乃木坂46というグループにまったく興味がないという方にもぜひともご覧いただき、この感動を分かち合いたく思い、少しだけ言葉を添えたい。


まずは、伊藤万理華というアイドルのヒストリーを少しだけ記しておく。2011年の乃木坂46結成当時からのメンバーであり、2017年末をもってグループを卒業している。人気メンバーと言ってしまっていいと思うのだが、おそらく乃木坂46ファン以外には、顔と名前が一致しない存在かもしれない。ムービー内の言葉を借りるのであれば「前から3列目のだいたい端っこ/真ん中にはなれなかったけど/ここが私らしいかなって」というように、センターやキャプテンといった立ち位置ではなく、メディアで目にする機会は多くはなかった。しかし、その類稀なる存在感と表現力は、いつだって観る者の目を惹きつけてきた。歌声は不安定(だが、味がある)で、ダンスの実力は随一。そして、個展を開催するほどの芸術家タイプであり、趣味に「苔 石 鉱物」を挙げるなど、グループ内において最もサブカルチャー的感性をくすぐるメンバーだったとも言える。CDの特典映像として収録されている個人PVでもその世界観はいかんなく発揮されており、「個人PVの女王」とまで冠されてきた。とりわけ、福島真希とタッグを組んだ作品群(『まりっか’17』『伊藤まりかっと。』など)は評価が高く、この『はじまりか、』はその一連のタッグの最高のフィナーレでもある。とにもかくにも、ムービーを観てみて欲しい。

伊藤万理華が、絶え間ないリズムに乗り、ラップとポエトリーの中間のような発話で詩を紡ぐ。乃木坂駅周辺のロケーションを舞い踊りながら、軽やかに移動していく。撮影は1カット長回しだ。突発的なダンスとは無関係に続いていく街の営み、連綿と刻まれていく生の一回性。長回しと”青春”の相性の良さに関しては、いまさら言及するまでもないだろう。リリックの序盤は、「私の青春」と語られるアイドル活動の葛藤が綴られていく。

15の時に乃木坂の オーディションを受けた
まさかの合格!?ハッピー!も束の間
選抜発表で名前は 呼ばれなかった
どうしたらいい?何が足りない?
焦りは空回り まわりまわりぐるぐる巡り


誰かが付けた順番に 泣いて眠れない夜もあった
周りを見ればみんなキラキラ 羨ましいないいないいな
でも違うんだ それはあの子だから出来ること
私にはできない ひとりひとりの眩しい輝き
ようやく認めた時に 何かが開けた!

それは”青春”という期間の普遍的な悩みのようでもある。自分という在り方の固有性を認め、その悩みを脱却していく。そして、リリックはありのままの自分を肯定してくれたファンへの感謝へと移行していく。

ファッションも趣味も全然 アイドルぽくなくて
こんな変な私だけど 見つけてくれてありがとう
どうして私を選んだの?
どこから巡って辿り着いたの?
どうしてそんなに優しく笑ってくれるの?
あの時あなたが手を 差し伸べてくれた
あなたの言葉にたくさん 支えられてきた
見ていてくれた
ブログ読んでくれた
コメントくれた
声援くれた
りっかタオル
緑と紫のサイリウム
ありがとうありがとう 全部全部ありがとう
会いに来て手を繋いでくれて ありがとう

アイドルとファンの間で結ばれる、か細くて小さい、でも確かな関係性。一度でもアイドルを応援したことのある者であれば、涙を禁じ得ないエモーションが、たしかにある。しかし、ビートが熱を帯びていき、流麗なストリングが空間を支配し始めると、そのミクロな関係性は、何か大きな流れと交差し始める。「見つけてくれてありがとう」という言葉が、より大きな力を纏いはじめるのである。

緑と紫のサイリウム
星みたいですごく綺麗だった
広い宇宙にあなたと私
ここで出会えた奇跡に ありがとう

そう、その詩情は”宇宙”へと広がっていくのだ。広い宇宙に、たった1人ぼっちで生まれて死んでいく寄る辺なさ。そんな人間という生き物の持つ”寂しさ”が、「1人のアイドルのグループからの卒業」という現象と結ばれていく。だけど、遠くのほうで誰かが、見てくれている気がする。その「終わり」を最後まで、見届けてくれる人がいる。もしそうであるならば、伊藤万理華(≒わたしたち)の、儚い生と死は、光の中で大袈裟に祝福されてしまうだろう。ハッピー・バース・デイ&ハッピー・デース・デイ。演劇に関心がある方であれば、お気づきだろう。この『はじまりか、』というショートムービーは、劇団ままごとの『わが星』(第54回岸田国士戯曲賞受賞作)という作品と、ラップとダンスというフォーマットを含め、多分にフィーリングを共にしているように思う。
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『わが星』では、”ちーちゃん”という1人の少女の一生が、地球の誕生と滅亡とに重ね合わせられている。そして、その一生を遠くから望遠鏡で観察している”誰か”がいる。眠りに着く前のたまらない寂しさの中で、ちーちゃんは言う。

ねぇ、手、つないでもいい?

アイドルビジネスの悪しき象徴になってしまった「握手会」という現象が、あまりに詩的に生まれ変わってしまう!会いに来て、手を繋いでくれて ありがとう。そして、差し出されたその手は、途絶えることのないそのリズムの上で、私たちをダンスへと誘う。定められた終わりまでの束の間の永遠、どうか私と踊りませんか?そんな風にして、伊藤万理華は今日も跳ねていくのだ。

*1:「大好きな、大好きな、大好きなメンバー、みんな凄くない?最高じゃない?」の振り付け、最高!!!

最近のこと(2018/02/01~)

一旦書くのを緩めると、まっこと億劫になるのがこの「最近のこと」なのです。書きそびれがあまりにも膨大なので、一日ごとに振り返るスタイルは放棄して、ざっくりと備忘録を記していきたい。2月はもうオリンピック一色である。ウィンタースポーツには興味がないのだけども、ピョンチャンという響きは何回聞いても飽きずにかわいいと思えます。ちなみに、ピョンチャンから連想されるのものは、ウサギさん派/カエルくん派に分かれて、カエルくんを思い浮かべたあなたは気が優しいらしい。4年前の”ソチ”という雅な響きも好きだった。あと、やっぱりトマス・ピンチョンの響きも好き。


ウィンタースポーツに興味がないと言っても、男子フィギュアスケートだけはさすがに家のテレビで観た。友達と家に集まって、ピザとコーラを囲みながら観た。あの時のアタシったら綾瀬はるかそのものだったな。大切な相方である佐藤哲夫パンクブーブー)を、きこりの泉に落っことしてしまった黒瀬純が正直者だったら、”綺麗な哲夫”として羽生結弦が差し出されるんじゃないだろうか、と友人たちに力説してみたのですが、誰もがすっごい剣幕で否定してくる。羽生くんは聖域なのだ。Twitterでつぶやいたらどうなるのだろうか、と試してみたのですが、武闘派の羽生ファンには届かなかったようで、怒られませんでした。あと、女子カーリングの「そだねー」はまんまとかわいい。本当にかわいい。糖分補給タイムとかかわいいものだけで構成されたスポーツだ。ルールは全然わからないのだけど。


オリンピックはサウナのテレビでボーっと観る。その度に「この世にこんなスポーツがあるのか」と新鮮に驚いてしまう。2月のベストサウナは鶯谷の「サウナセンター大泉」です。100℃のサウナ(セルフロウリュウ可)、15℃の水風呂(攪拌なし、塩素臭なし)という都内最良と言っても大袈裟ではない設備で、1セット目からいとも簡単にととのう。全身が”あまみ”だらけになって、極上の睡眠を得ることになりました。場末の雰囲気に耐えられるのであれば、鶯谷であれば「萩の湯」ではなく、「サウナセンター大泉」を訪ねてみて欲しい。いつの間にか、東上線沿いの大山「クアパレス藤」がリニューアルオープンしていた。元々、檜の香りのする110℃近いサウナを有する優良銭湯だったが、サウナの良さはそのままにすっかりスタイリッシュな内装に生まれ変わっていた。テレビなしで、90年代J-POP有線が小さく流れている。汗をかきながらの、シャ乱Q小室ファミリーが染みた。外気浴スペースは椅子が2つに、植物や扇風機まで。水風呂が20℃ほどで物足りないだけが難か。2月に新しく尋ねたサウナは「綱島源泉 湯けむりの庄」だ。黒湯の温泉が有名な施設で、なんと水風呂も黒湯を使用。ヌメっとしているが気持ちい。しかし、サウナが80℃ほどでなかなか身体が温まらず、苦戦を強いられた。温泉はいいし、外気浴スペースも充実しているし、ご飯も美味しいし、スーパー銭湯好きには申し分ない施設だと思う。でも、とにかく混んでいる。



今月最も記憶にこびりついているのは、Father John Mistyのライブである。完璧なソングライティングと壮大なサウンドスケープだけでも最高なのに、ずっと観てたいと思わせるゴージャスな身体性と優雅な所作でもって、完全にその存在は神に格上げされました。ジョシュ・ティルマン、マジ神!(『勝手に震えてろ』のヨシカちゃんに捧ぐ)

ライブ前に「名曲喫茶ライオン」で時間を潰して、「喜楽」でワンタン麺を食べた。ラブホテル街である渋谷百軒店の正しい過ごし方。「名曲喫茶ライオン」は行くたびに感動してしまう。なんで並ばず入店できて、混んでもいなく、珈琲1杯5~600円で過ごせてしまうのか。2,000円くらいとっても、バチは当たらない気がするのだけども。ちなみに坂元裕二の『カラシニコフ不倫海峡』で打合せ場所に指定されていたが、あのお店は多分私語厳禁なので、会話はできない。爆音で音楽鳴ってるから聞こえねえよ(©ゆらゆら帝国)というギャグなのかもしれない。綱島にあるレコードと家具のお店&カフェである「R」で開催されたhi,how are you?原田晃行のカセットリリースワンマンショーにも行ってきた。原田くんは天才で、この日もやっぱり天才的にいい曲ばかり歌っていた。そして、全然天才ぽくないところがかっこいいのだ。今回リリースされたカセットも最高。

私のカセットデッキイカれていて、テープが伸び切ったような音しか鳴らず、何を聞いても信じられないほどのサイケになってしまう。ソロ名義で出した曲、そろそろまとめて欲しい。ライブ前に、綱島の駅近くにある行列のできるコッペパン屋さん「パンの田島」でコッペパンを買い込み、公園のベンチで食べた。苺ジャムピーナッツコッペという数奇なメニューが人気らしく、食べてみたのだけど、意外と喧嘩せずに調和していた。別々に食べたほうが美味しいような気もするし、たまらなく癖になってしまうような気もする不思議な味だった。ハムカツとかコンビーフポテトといったオカズ系のコッペパンがとりわけ美味しかった。ときに、私の中でKANブームが巻き起こっている。

めずらしい人生KAN1987?1992

めずらしい人生KAN1987?1992

『めずらしい人生』というアルバムを買って車で聞いてたら、胃もたれするほどに名曲しか入っておらず、「ベスト盤並だろこれ・・・」と思っていたら「愛が勝つ」が流れてきたのでベスト盤と気づいた。「愛が勝つ」が収録されているアルバムが『野球選手が夢だった』であることは知っているのだ。「こっぱみじかい恋」と「言えずのI Love You」などは「愛が勝つ」の10倍売れて欲しい名曲だ。
TOKYOMAN

TOKYOMAN

弱い男の固い意志

弱い男の固い意志

続けてオリジナルアルバムの『TOKYO MAN』『弱い男の固い意志』を聞いたら、どちらも素晴らしかった。今年はKANのコンサートに行ってみたいと思う。小沢健二の『アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)』はいい曲だ。「下北沢珉亭ご飯が炊かれ麺が茹でられる永遠」という詩、韻の響きが素晴らしい。詩だ、と思う。『ミュージックステーション』は満島ひかりが全身全霊で美しくて、その記憶ばかり残っています。




『人生フルーツ』をひさしぶりに観て、あまりに良くてポロポロ泣いた。昨年のベスト1かもしれない。テレビで放映されたのを録画してあったので、1日3分というようなペースで再び見直している。その豊かさには、飽きることがない。津端修一さんのコックピットのような書斎に憧れて、机を本棚に囲まれるように配置してみた。凄く居心地が良い。2月に観た映画で特に素晴らしかったのは『スリー・ビルボード』と『パディントン2』だ。とりわけ『スリー・ビルボード』はもう2018年のベストで良い。あまりにも凄すぎて、何度も涙ぐんでしまった。これは坂元裕二にいつか書いて、撮って欲しいフィルムみたいだ、と思った。マーティン・マクドナーという才能をまったく存じ上げていなかったことを恥じ、これから勉強してまいります。




2月と言えば、松本壮史×三浦直之によるインスタドラマ『それでも告白するみどりちゃん』も素晴らしかった。主演3人の瑞々しさと演技勘の良さ。いつか3人ともロロの公演に出てくれぬものか。しかし、松本作品はいつも役者が良い。松本壮史の演出マジックがどうなっているのか、まことに知りたいものだ。思わず『デリバリーお姉さんNEO』と桜井玲香個人PV「アイラブユー」も観直してしまった。岩井堂聖子桜井玲香も是が非でも三浦直之の舞台で観てみたい。あらためて、桜井玲香さんが本当に好きだなと思ったので、『桜井玲香の推しどこ?』と『悲しみの忘れ方Documentary of 乃木坂46』も観直しました。「生駒さん、ありがとう」という気持ちになった。あと、Netflixで『美味しんぼ』のアニメ観るのが何よりの楽しみで、今年に入ってすでに30話くらい観てしまった。適当にながら見できるのが最高なのだ。オープ二ング曲が「Dang Dang 気になる」に変わる24話あたりから、山岡さんの性格がグッと柔らかくなった気がする。『美味しんぼ』はシティポップリバイバルの波に乗って、デジタルリマスターされたって噂は本当なのだろうか。



最近思ったことの詰め合わせ。温かい飲み物では喉の渇きは癒せない、という考えが抜けない。すごく子どもっぽいと思う。温かいお茶だけで喉を潤せるようになった時、私は「大人」になれるのかもしれない。神保町の「ボンディ」のカレーは本当に美味しい。古本屋巡りの終着点は、たいてい「ボンディ」のビーフカレーだ。土日などはひどく並ぶが、それでも食べたい、と思う。そんな折、家から自転車で10分ほどのところに、「ボンディ」の姉妹店「インディラ」があることに気づいた。今の家に住みだしてもう5年ほど経つのに。そんなに近くになるならば、1年に20杯は食べるとして、100杯のボンディの損失だ。「インディラ」はまったく並ばずに、本店に比類するカレーをやや安価で食べられる。ちなみに、付け合わせのジャガイモは本店より1個少ない。
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チキンカレーは本店と同様にきちんと皮を香ばしく炙ってある。まったく気負ったところのない昭和レトロ喫茶という佇まいも最高だし、何より店員さんの感じが凄く良い。こんなお店が近所にあるというだけで引越さない理由になるな、とすら思った。



書くよりも読みたい、というモードに入ってしまい、本屋/古本屋を駆けずり回っては乱読・積読している。最近読んで特におもしろかったもの。

東京の昔 (1974年)

東京の昔 (1974年)

恋愛論

恋愛論

幸福の擁護

幸福の擁護

生きるかなしみ (ちくま文庫)

生きるかなしみ (ちくま文庫)

吉野弘詩集 (ハルキ文庫)

吉野弘詩集 (ハルキ文庫)

月夜のみみずく

月夜のみみずく

ジャイアント・ジャム・サンド (えほんライブラリー)

ジャイアント・ジャム・サンド (えほんライブラリー)

こんなおみせ しってる? (かがくのとも絵本)

こんなおみせ しってる? (かがくのとも絵本)

たべるトンちゃん

たべるトンちゃん

サンタクロースにインタビュー

サンタクロースにインタビュー

ぼくの宝物絵本 (MOE BOOKS)

ぼくの宝物絵本 (MOE BOOKS)

3びきのこぐまさん

3びきのこぐまさん

クルミわりとネズミの王さま (岩波少年文庫)

クルミわりとネズミの王さま (岩波少年文庫)

ゆかいなホーマーくん (岩波少年文庫 (017))

ゆかいなホーマーくん (岩波少年文庫 (017))

やかまし村の子どもたち (岩波少年文庫(128))

やかまし村の子どもたち (岩波少年文庫(128))

無名の人生 (文春新書)

無名の人生 (文春新書)

死にたい夜にかぎって

死にたい夜にかぎって

ここは、おしまいの地

ここは、おしまいの地

HUNTER×HUNTER 35 (ジャンプコミックス)

HUNTER×HUNTER 35 (ジャンプコミックス)

二匹目の金魚

二匹目の金魚

他にもたくさんあるのだけども、ちょっと限がないのでやめておく。池袋は文化不毛の地と思っていたが、「古書 往来座」「八勝堂」「夏目書房」という3軒の古本屋の品揃えにはワクワクさせられる。しかし、「八勝堂」が2月いっぱいで閉店。現在は半額セールを開催中である。何回か通い、武井武雄初山滋の画集、映画や哲学の本を大量に買い漁ってしまった。あまりに興奮してしまい脳に後遺症が出ていて、最近は値札を見ると、つい半分に計算してしまう癖がついた。「あっ、ここは八勝堂じゃなかった」と現実に戻り、改めて値段を確認すると、なにやらひどく高値に感じてしまうので、困っている。貴重本を除き、古本というのはだいたい安い。「ああ、さすがに今月は買い過ぎてしまった!!」とおそるおそるクレジットカードの明細を確認してみても、ちょいと上着なんぞを買った月などに比べれば、安くて驚いたりする。服を捨てよ書を買おう、だ。「なんとなく本を読みたい」というあなたにまずオススメしたいのは、A・A・ミルンくまのプーさん』とエーリッヒ・ケストナー飛ぶ教室』という2冊の児童書だ。
クマのプーさん (岩波少年文庫 (008))

クマのプーさん (岩波少年文庫 (008))

飛ぶ教室 (岩波少年文庫)

飛ぶ教室 (岩波少年文庫)

ブックオフで100円とか200円ですぐに見つかると思うので、ぜひとも読んで、感想を教えてください。

小沢健二『アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)』

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小沢健二が、極めて私的ないくつかの関係性を綴ったリリック。ひどく露悪的ではあるが、どこまでも普遍的に、切実に響くことは否定できない。もしかしたら、ポップミュージックの歌詞というものは具体的であればあるほどいいのかもしれない、というような幻想に駆られる。それは言い過ぎとしても、「失恋して悲しい」と歌われるよりも、「君がいないと何にも できないわけじゃないとヤカンを火にかけたけど 紅茶のありかがわからない」(©️槇原敬之)なんてふうに歌われるほうが、その悲しみがずっと立体的になって心に響いてくる。それは「同じ体験をしたことがある」とかいう共感性ではなく、わたしたちが想像することができる生き物であるからだろう。歌詞の中で展開される限定的なシチュエーションと聞く人との距離、それを想像力で補うという運動性こそが、広く聞かれる大衆音楽というものを支える秘密なような気がしてならない。下北沢珉亭*1、行ったことがなくてもかまわない。「アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)」を聞く人の中で広がる何百、何千通りもの「珉亭」の炒飯を想い、ウットリとしよう。



これは友情だけでできております
岡崎京子さんという僕の友人で、本当に才能のある・・・
昔、漫画がすごかったって言われるけど、そうじゃない
今もすごいです
今は描いてないですけど、岡崎京子さんって今もすごい人です
それを伝えたくて
岡崎さん観てます、今

2/16に放送された『ミュージックステーション』でのパフォーマンス前の小沢健二の言葉を聞いて、「アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)」という楽曲が少しわかったような気持ちになった。今もすごいです・・・小沢健二岡崎京子のその活動の最盛期が90年代であったのは疑いようがない。しかし、20年以上の長い沈黙を貫いてもなお、新しい若い人々の魂を訴求し続けていたのだ。その証左として、新しい才能、若い詩人たちが次々にリスペクトを表明している。満島ひかり二階堂ふみやくしまるえつこSEKAI NO OWARIceroフジファブリック峯田和伸銀杏BOYZ)・・・・それらは「アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)」の以下のラインに集約されていく。

でも魔法のトンネルの先 君と僕の心を愛する人がいる
本当だろうか?幻想だろうか? と思う

きっと魔法のトンネルの先 君と僕の言葉を愛する人がいる
本当の心は 本当の心へと 届く

きっと魔法のトンネルの先 君と僕の心を愛する人がいる
汚れた川は 再生の海へと届く

「本当だろうか?幻想だろうか?」という戸惑いから、「本当の心は本当の心へと届く」と段階を追って、その心情を吐露している。自分たちの残してきた魔法を受け取った若い才能がいる、そのことがどれほど復帰後の小沢健二を奮い立たせたかが、伝わってくる。若き小沢健二の音楽は、散っていく熱への諦めと、それに抵抗する祈りであった。そんな「すべてのことは終わる」という前提が、更新されていく。若草ハルナと山田一郎の短い永遠の愛が、二階堂ふみ吉沢亮の身体によって再び灯ったように。かつて2人が放った熱は散らずに、受け継がれ、誰かの体温を保ち続けている。その事実は、岡崎京子の(そして、わたしたちの)疲弊した魂をひどく慰めるだろう。




「これは友情だけでできております」と小沢健二は言った。小沢健二岡崎京子の友情。そして、この日の『ミュージックステーション』では、満島ひかりがサプライズで登場し、パフォーマンスを繰り広げた。出演者の中にはFolderというユニットで活動を共にした三浦大知がいる。ある若い期間、強く魂が結びついた小沢健二岡崎京子という関係性が、三浦大知満島ひかりの共演というトピックにトレースされてしまう奇跡には、目が眩んでしまった。ここでもやはり、受け継がれているのだ。


この頃の 僕は弱いから 手を握って 友よ 強く

この頃は 目が見えないから 手を握って 友よ 優しく

ここで歌われる”友”というのはもちろん岡崎京子のことなのだけど、そこに限定されないのでは、というような気もしている。弱った小沢健二の手を握る”友”とは、二階堂ふみでもあり、満島ひかりでもあり、小沢健二岡崎京子の表現に魂を揺さぶられ慰められた、これまでとこれからのすべての人々に向けられている、そう思えるのだ。



関連エントリー

*1:かつて甲本ヒロト松重豊がバイトしていた古汚い中華屋だ

ロバート・マックロスキー『ゆかいなホーマーくん』

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ゼンマイ仕掛けの機械から大量に流れて出てくるドーナッツ、それをポケットに手を入れたまま片手でムシャリと頬張らんとする少年。たまらなく胸を捉えた。この表紙のイラストだけで、10冊は確保したい代物である。この『ゆかいなホーマーくん』の挿絵を担当しているのは作者のロバート・マックロスキーだ。『カモさんおとおり』(1950)『すばらしいとき』(1978)という絵本作品で二度のコルデコット賞を受賞している。

かもさんおとおり (世界傑作絵本シリーズ)

かもさんおとおり (世界傑作絵本シリーズ)

すばらしいとき (世界傑作絵本シリーズ)

すばらしいとき (世界傑作絵本シリーズ)

とにかく絵がナイスなのだが、肝心の内容もまた、これが実に楽しい作品だった。訳は石井桃子ということで、名作保証つきなのである。1940年代のアメリカの田舎町を舞台とした6つの短編集。登場するのはドーナッツ、珈琲、床屋、フライドチキン、キャンプ場、シェービングローション、映画、署長、判事、スーパーマンに、ストロベリーアイスクリーム・・・・おぉ、古き良きアメリカ。物語は明るく、どこまでもカラっと乾いている。たとえば、1話「ものすごい臭気事件」でホーマーくんはスカンクという珍しい動物をペットとして手なづけるのだが、相棒めいたポジションにつくでもなく、絆めいたものはほとんど描かれることはない。ハイライトである3話「ドーナッツ」では、分量間違いと機械の故障で、無限と言わんばかりにドーナッツが溢れ出てくる。しかし、お話は「もったいない」だとか「機械文明批判」といった道徳めいた方向には進まずに、ホーマーくんの機転を効かした解決策がただただフューチャーされるのだ。


舞台となる田舎町が、なにやら活力にみなぎっている。町に騒動を巻き起こすのは、オートメイションによる大量生産、コピーライティング、看板広告、画一化された住宅街など、変わりゆく時代の波である。そんな大量消費社会を皮肉めいた視線で描きながらも、物語のホーマーくんたちはどこまでも楽しく資本主義を謳歌している。その筆致が新鮮であり、心地よい。なんたってドーナッツの洪水である。それを町中の人が珈琲やミクル、ソーダ水にひたしてフガフガと食べ狂うのだ。当時のアメリカという国の、勢いみたいなものを感じる。


機械いじりが趣味で、ラジオで自主制作してしまうほど賢く、クールなホーマーくんはかっこよくて素敵なのだけども、後半3編は、その存在感は薄い。真の主役は、聡明なホーマーくんの周りにいる大人になりきれない大人たちだろう。彼らの勝手気ままな振る舞いが情けなくも愛おしく、良質なコメディを形作っています。

坂元裕二『anone』5話

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とうとう周回遅れである。つい不満のほうに筆が走ってしまうので、何度も書き直してしまうのだ。たとえば、序盤で繰り広げられた「すれ違いコント」に、ナレーションによる状況説明が挿入されていたのには、たまらなく暗澹たる想いに駆られた。"すれ違っていますよ"と明け透けに説明してしまうことで、あの場で巻き起こるズレのおかしみは半減してしまう。*1冒頭のプレイバックしかり、ここはもうプロデューサーに腹を括って欲しい。

何もできなくていいの
その人を想うだけでいいの
その人を想いながら、ここにいなさい

「危篤状態の彦星の回復を願い、病院の前に一晩中立ち続ける」という描写にも首を捻ってしまった。祈りが通じる。その感動はわかるのだが、あまりにもスポ根でベタではないだろうか。危篤の彦星(清水尋也)を置いて、BMWに乗って1年前から予約していたレストランへと食事へと向かう家族を、責めるような描写もいささか息苦しい。妹が殺された日にAVをレンタルしていた男を肯定したのが『それでも、生きてゆく』(2011)だった。

怒られるかな…ダメかな
家族だから行かなきゃダメかな
行かなきゃ…

疎遠であった父の最後を見届けたくない娘に、「いいよいいよ」と逃避を呼びかけたのが『カルテット』(2017)だった。そう考えると、『anone』という作品、これまでとは違う領域を描こうとしているのだろう。たとえばそれは、どんな状況の中でも、貫き通さねばならない“美しい心の在り様”みたいなものではないだろうか。4話において、病室の枕元に『銀河鉄道の夜』が置かれていたが、今作での坂元裕二宮沢賢治を指標しているのではないだろうか。他人のために1000万円という大金を差し出す亜乃音(田中裕子)、彦星の手術代を偽札で賄い、その後は逮捕されてもかまわないと言い切るハリカ(広瀬すず)。彼女たちの誰かの幸福のための犠牲の精神は、『銀河鉄道の夜』のカンパネルラや蠍、『よだかの星』のよだかを彷彿とさせる。ともすれば、道徳の教科書のように扱われてしまっている宮沢賢治を、”偽札作りという強烈にイリーガルな現代の舞台で展開しようと試みているのが『anone』という作品なのだ。そう考えるならば、その行方を見届けないわけにはいかぬではありませんか。



『anone』のテーマはニセモノである。ときに”ニセモノ”というのは、なぜ存在するのだろう。それは、どうにもならない人達の「こうだったらいいのに」という”祈り”の裏返しなのではないだろうか。お金、家族、友人・・・誰かが何かを足りないと思う分だけ、この世界にはニセモノが生まれていく。ハリカが娘で、持本(阿部サダヲ)がパパで、るい子(小林聡美)がママで、亜乃音が伯母さんで・・・花房(火野正平)を欺く、という名目はありながらも、そのニセモノの家族の風景は、どこまでも寂しい4人の”祈り”が生み出したものなのだ。

娘のハリカです 文学部です テニスサークルです

こんな台詞からも、”普通のみんな”から零れて落ちてしまった者の切なさのようなものが滲んでいる。


るい子:自首してまいります
亜乃音:そういうの、もう結構です
    <中略>
    そういうの自己満足ですから!

「騙し取った1000万円が盗まれてしまったので自首します」というるい子と持本の謝罪を、亜乃音は「結構です」とあしらってしまう。ハリカの会話の仲介などでコミカルに描かれているが、法律や倫理といった社会のルールを超越した凄まじいやりとり。そして、そんな問題はおざなりに、4人はテーブルを囲んで焼きうどんを食べる。テーブルを囲んだ食事・・・るい子が最後まで本当の家族とできなかったこと。そして、焼うどんに添えられる紅しょうが。もちろん、この紅しょうがとは<赤>であり、”血のつながり”の代替である。亜乃音が玲(江口のりこ)に差し出すも拒まれた<赤>を、4人は分かち合っていく。そして、亜乃音が苺の代わりとして差し出した傘<赤>は、中世古(瑛太)の元に誤配される。中世古もまた、<赤>という血のニセモノで連帯していく疑似家族に仲間入りしていくのだろうか。



ニセモノの家族の4人は、同じパジャマを着て、並べた布団に眠り、揃って歯磨きをして、テーブルについて食事をする。坂元裕二ファンの誰もが『カルテット』を想起したことだろう。

わたしたち同じシャンプー使ってるじゃないですか
家族じゃないけど
あそこはすずめちゃんの居場所だと思うんです
髪の毛から同じ匂いして
同じお皿使って
同じコップ使って
パンツだってなんだって
シャツだってまとめて一緒に洗濯物に放り込んでるじゃないですか
そういうのでも いいじゃないですか

結びつきを深めた共同体は、「行く」ところ、から「帰る」ところに変容する。そこに、中世古という侵入者が現れる。この構図もまた『カルテット』を彷彿とさせる。



300円の蝉柄のパジャマ、白クマの赤ちゃんに匹敵するかわいさのくしゃみ、昨夜のとんかつが並ぶ朝食、ベレー帽とボーダーカットソー、パンの香り、ポイントを貯めること、止まらないおしゃべり、切り過ぎた前髪、ミカン鍋・・・・細部には小さいながらも確かな、生きる喜びが見事に描写されている。これらは昨今ことさら重要視されるようになった”伏線”という脚本の構造の縛りから解放された豊かさだ。「(手袋を)なくした場所の検討はついているの?」と亜乃音に尋ねられるところなどは、本当にさりげないのだけども、生々しい実感がこもっていて、大好きなシーンだ。その一方で、「生きなくたっていいじゃない 暮らせば」といういかにも名言っぽい台詞の意味を掴み損ねていることを正直に告白したい。それよりも、田中裕子の焼きうどんの啜り方だろう。あの”ズゾゾ”という粗野で愛おしい響きこそ、「暮らしましょうよ」という言葉を体現しているように思うのだ。

*1:これではあの視聴者をバカにしくさった『エンタの神様』におけるアンジャッシュのコントのテロップと一緒ではないか