青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

大根仁『ハロー張りネズミ』8話

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FILE No.1から3までの慌ただしいジャンルの衣替えは、放送開始直後ということもあり、置いてけぼりにされるような感覚があったが、各キャラクターが物語に馴染んできた6話以降は好調だ。視聴率もわかりやすく回復の傾向を見せていて、何だかんだ視聴率も、指標としてまだまだ捨てたものではないのかもしれない。小市民の実存のようなものを巡る、下町探偵モノと呼ぶにふさわしい渋めの作品はどれも泣かせる。探偵たちはお節介と人情でもって、想いや人の存在が、なかったことにされるのを許さない。とりわけFILE No.6「残された時間」の男2人の泥臭いロードムービーっぷり素晴らしかった。トヨタスプリンターカリブや街の中華屋や居酒屋の薄汚れ具合、美術やロケーションの細部のリアリティの充実が楽しい。その居酒屋で交わされるグレ(森田剛)と栗田(國村隼)の会話が実によかった。

栗田:兄さん、飲めないのか?
グレ:いや、酒、大っ好きだよ
栗田:じゃあ、飲めよ
グレ:ダメだよ、運転あるし
栗田:今日は、この辺りで泊まればいいだろ
グレ:じゃあ・・・飲もうかな

大ジョッキをあおるグレ。本筋とはほとんど関係ないのだが、役者の演技を含め(ビールを前にした時の森田剛の表情!!)、妙に瑞々しく印象に残る。テレビドラではやはり、こういった”生きたやりとり”を観たい。


山田洋二『幸福な黄色いハンカチ』のオマージュはあまりに衒いがなく、イージー過ぎる気がしないでもない。服役を終えたヤクザ者と家族の再会というトレースされたあらすじ自体、時代錯誤のベッタベタな昭和ブルースだ。そんな染みったれたブルースを2017年に違和感なく響かせるのに成功している要因は、森田剛という役者の現代的な佇まいに他ならないだろう。彼の持ち合わせる軽薄さと物悲しさが間に挟まることで、國村隼高倉健ばりの人情が、スッと現代に接続されてしまう。つくづく森田剛は素晴らしい役者である。


グレは探偵の仕事を遂行する為には、”嘘”をつくことを厭わない。グレというのは人懐っこい人情家なのだけども、森田剛が演じることで、内に狂気を秘めたサイコスキラーのようにも見えてくる。であるから、グレの発する言葉の真偽は常に揺れている。そのことがドラマにほどよい緊張感を生んでいるように思う。そして、グレのつく”嘘”は最後まで物語を振動させる。

栗田:どうだった?あったか、黄色いハンカチ
グレ:あったよ・・・黄色いハンカチがたくさんあったよ、息子さんに会いに行こう
栗田:・・・不器用だな、兄さんも
息子には会えなかったが、兄さんに会えてよかったよ

グレのつく優しい嘘が肯定され、栗田とグレの間に疑似父子関係が結ばれてしまうラストは感涙を禁じ得ない。1話で所長(山口智子)の発した

いいんじゃん、代わりだって

という言葉がリフレインする。代わりでもいい、偽物でもいい、というのがこのドラマの根幹に流れるフィーリングだ。得難い関係性を結んだ栗田とグレだが、そもそもこの依頼におけるグレは五郎(瑛太)の代役であったのだから。




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ナカゴー『地元のノリ』

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上京した都市生活者の”寄る辺なさ”のようなものが、水木しげる的な”妖怪”として語られている。人知れず孤独を抱えるファミレスのバイトスタッフの2人が休憩時間に、突如として友人関係を結ぶ。友達になった彼女たちは、互いの秘密を告白し合う。彼女達の正体は、1人はカッパで、1人はぬりかべなのだと言う。あと、ぬりかべは店長のことが好きらしい。秘密の共有を終え、かっぱは手が止まっていたお弁当の残りを片付けにかかる。

カッパが食べてるな、って思いながら見るね
ぬりかべに見られてるな、って思いながら食べるね

と、その相互関係を確認し合いながらカッパが「1人じゃないんだなぁ」と零す。ジョリーパスタのスタッフ控室で繰り広げられる妖怪たちの小さなやりとりに思わず涙である。


いや、なんだこれは。本公演『ていで』の洗練はどこ吹く風、この特別公演はやりたい放題に編み込まれた荒唐無稽な群像劇だ。河童をはじめとする北区に住む妖怪たちは、赤羽のやぶ医者によって人の皮膚を植え付けられており、見た目は人間と区別がつかない。違和感なく人間世界に馴染んでいるようでいて、誰もが東京で暮らすことに居心地の悪さを感じているのだ。「繰り広げられる人間模様の登場人物全てが実は妖怪でした」というのが、物語のどんでん返しにあたるのだが、その隠されているはずの事実は、劇が始まるやいなや語り部によって宣告される。「実は妖怪でした」といったカタルシスを、ナカゴーは簡単に手放してみせる。「あらすじやオチがわかっていても、おもしろいものは作れる」というのが『ていで』より続くブームのようだ。実際、この劇において重要なのは彼らの正体などではなく、彼の抱える”切実さ”である。


基本のベースにあるのは、母子家庭に現れる別れた夫、不良中学生の崩壊家庭と再生、マンネリカップルのいざこざ、フリーターの恋・・・といった、どこかで観たことあるようなメロドラマの欠片である。それらを短時間でパワフルに雑になぞっていくのだけども、これが不思議なことに涙腺にきてしまう。丁寧な伏線や、エピソードの積み重ねがなかろうと、その場の役者のフィーリングの発露(言うならば”ノリ”)でもって、人の感情というのは簡単に揺さぶられてしまうものなのかもしれない。人間というのは、それくらい適当な生き物なのだ。波田陽区に似た男であっても、テニスウェアとラケットを身につけ、熱い言葉さえ放てば、当たり前のように周りから「松岡修造である」と誤解されてしまう。*1であるから、河童は人間になるし、人間もまたカッパになる。この境界の曖昧さは不安でもあるが希望でもあり。例えば、誰かの代わりに父親役を演じるなんていうのは何も難しいことではなく(この劇中において一体何組の疑似父子関係が築かれたことか!?)、そこには簡単に愛が宿る(のかもしれない)。

*1:この松岡修造というチョイスがいまいち冴えていないような気がして、あそこがもう少しハッとする何かであったなら・・・

アジズ・アンサリ『マスター・オブ・ゼロ』Season 2

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しばらくの間はどんなドラマを観ても、「そんなのアジズ・アンサリがとっくにやっているよ、それも完璧な形でね」なんて生意気なことを唱えてしまいそうである。それもこれも『マスター・オブ・ゼロ』のせいだ。それほどに今年リリースされたシーズン2の素晴らしさは筆舌に尽くしがたい。シーズン1の充実をはるか凌ぐエモーションと語りのバリエーション。僅か数十分のエピソード10回分を通して、人生というものが内包する可笑しさ、哀しさ、美しさ・・・そういったあらゆる側面を語りきってしまっているのでは、と感嘆の溜息が漏れてしまう。6話の「ニューヨーク、アイラブユー」の素晴らしさは100年語り継がれていくべきだろうし、ラスト2話のラブストーリーとしての鮮烈さも胸を打つ。リアリティ溢れる生々しいやりとりはもちろん、部屋のソファーで映画を楽しむ2人に発された大雪警報、帰れない二人、大きすぎるワイシャツを着た彼女と夜中のパジャマダンスパーティー、繰り広げられるツイスト・・・なんていうモチーフの豊かさ。もしくはヘリコプターからニューヨークの夜景を眺めながらの、防音用の密閉型ヘッドフォン越しの告白はどうだ(秘密の通信が操縦手にも筒抜け、というオチもナイス)。そして、何より全編で繰り広げられるウィットに富んだ会話劇としての秀逸さ。ドラマ作家であれば嫉妬の嵐が吹き荒れること間違いなしの筆致である。あと、音楽のセンスが震えほどかっこいい。



シーズン1同様に、”ミレニアル世代”であるデフ達が、文化の成熟とテクノロジーの発達による「自由な選択」を享受していく様が瑞々しく描かれている。イタリア人のフランチェスカがニューヨークの薬局を訪れ、感激する。

(ニューヨークの)薬局って大好き
イタリアの薬屋は小さくて古い
でもここは大きくて何でも手に入る
歯磨き粉が何種類も!

選択肢が無数にあるって最高!しかし、いくつかの選択肢の中からどれか一つを選びとることは、ときに困難を極める。薬局に無邪気にときめいたフランチェスカも、エピソードを重ねていく中で、「人生を共にするのはデフ(=ニューヨーク)か婚約者のピノ(=イタリア)か」という選択に葛藤していく。7話におけるブライアンの父のエピソードも顕著だろう。2人のガールフレンドの間で揺れ動き、その果てにどちらからも捨てられてしまう。デフにしても、出会い系サイトを利用し、無数の女の子とデートを重ねながらも誰も選びきれず、仕事においても「やりがいか/金や名声か」という選択に頭を悩ませている。同時に、このシーズン2では、3話における”宗教”や8話における”性的趣向”など、自分が選びとったわけではないものへの葛藤も描かれている。いくら便利な世の中になったとは言え、人の悩みというのは尽きない。徐々に改善されてきているものの、移民二世やホモセクシュアルといったマイノリティとして生きる哀しみは根深いし、生きる上での根源的な”孤独”というのはいつの時代も普遍的だ。アジズ・アンサリの人生に対する所感を簡単にまとめてしまえば

親の世代のがんばりやテクノロジーの進化のおかげで、何かと便利で楽勝な人生の僕たちだけども、やっぱり”今”を生きるってことは、とびきりにやっかいで困難だよね

という感じであろうか。5話のラスト、パーティーが終わり、想いを寄せるフランチェスカを恋人の待つホテルに送り届けた後のタクシー内のデフをカメラは5分間に渡り定点で捉え続ける。30分足らずの1エピソードの内の5分だ!クッキリと1人分のスペースが空いたバックシートを横目に、埋めようのない圧倒的な孤独を湛えるデフ。何やら車の外では嵐が吹き荒れている。やっぱり人生ってのはまったく楽じゃないね。


であるからこそ、私たちは人生の断片をとびきりに楽しむ”べき”だ。その幸せだった瞬間を懸命にかき集め、「またいつかあんな時間が過ごせるように」とこっそり祈るのである。それが生きることを諦めないたった一つの方法だ。シーズン2の最終話、デフとフランチェスカは離れ離れになる。フランチェスカはかつてデフとスマートフォンで撮影した動画を見つめる。

ハロー未来の私たち
元気でやっているかい?
楽しかった今夜を思い出してくれ
ふたりとも幸せでいて
これを見る時 僕らはどこにいるかわからないけど
何があっても楽しんで!

世界に向かってハローなんつって手を振るムービー。まさに、かつての幸せだった時間に慰められている瞬間を収め、物語は幕を閉じる。



同じベッドで眠るデフとフランチェスカが映し出されるラストショットの解釈は実に難しい。すべてはデフの見た夢だったのか、それともフランチェスカピノを捨て、デフの元に戻ってきたのか。あえてどのような解釈も可能な撮り方をされている。1話のはじまりと10話の終わりが、共にベッドで目覚めるデフのカットであるというのは、気になるところだ。「あの芳醇なエピソードが全て夢だった」としてしまうのはあまりに味気ないが、このシーズン2全体に”夢”のような質感が漂っていたのは事実だ。それらは名作映画のオマージュという形で表出している(映画はスクリーンに映し出される夢だ)。『自転車泥棒』や『情事』といった古典映画を無邪気になぞってみたり、「次世代のウディ・アレン」というアジズへの批評を真っ向から受け取り、大胆な『アニー・ホール』へのオマージュを披露したり。
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9話では「傷心したデフがスプラッター映画のように血まみれになり、その様子を男がテレビで観ている」という不思議な挿入シーンも存在する。これらの映画のイメージは6話「ニューヨーク、アイラブユー」での、ニューヨークに暮らす多様な人種、価値観の人々が集まり、暗闇の中で1つの映画を見つめているというラストカットに帰結するのだろう。『マスター・オブ・ゼロ』はニューヨーカーみんなで観る”夢”なのだ。

最近のこと(2017/08/24~)

まずい、このままでは8月の記事数がブログ開設以来初の一桁になってしまう!と、慌てて「最近のこと」を書き飛ばすことにする。あんまり書くことないのだけども。今月は10本しか更新できなかった・・・なんて思っていたけど、冷静に考えれば3日に1本ペースというのは充分過ぎるのでは。野球なら3割バッターは褒め称えられるわけだし、私が福田吉兆*1ならフルフルと震えているレベルだ。とは言え、8月のことは8月の内に。



今年の夏休みは神戸と京都に行った。私の両親は、かつて神戸に住んでいた時期があって、妊娠が発覚したのも神戸であったらしい。それゆえ、どこか神戸という土地は水が合うのかもしれない。小学生の頃、あまり意味もわからず得意気に「製造地は神戸だからさ」と話していたら、「いや、製造て!」と、高齢の祖母に現代的にツッコまれたのを強く覚えている。旅行の前には伯母の葬儀があった。どちからと言うと疎遠だったので、思い出は多いほうではないが、優しい人だったような気がする。喪主であった叔父が通夜の後に「こいつが逝っちまって、これで俺の人生もしまいだな」と零していたのが胸に響いた。かつての叔父は怒鳴り癖のある亭主関白な男であった。会うなり「おう、坊主!」と言ってくるようなタイプの人間で、幼い頃からシャイボーイの私は彼に挨拶をしに行くのをいつもビクビクしていた記憶がある。当時の私としては、人のことを”坊主”だなんて呼ぶ人間は『キテレツ大百科』の熊田熊八その人だけなのだ。
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放送当時、熊田熊八がコロ助のことを「ネギ坊主」と呼ぶ理由がわかってなかったのだけど、多分、コロ助の”ちょんまげ”がネギ坊主(ネギ科の植物の聚繖花序)に似ているからなのだろう。『ハロー張りネズミ』の7話のラストでも、このネギ坊主を花束に見立てるという演出が登場した。溜まっていた『ハロー張りネズミ』を先日一気に消化したのだけども、人の実存みたいなものを巡る正統派探偵ドラマが展開されていて、おもしろく観られた。瑛太も心なしかシャープになってきている気がする。テレビの話を続けると、『水曜日のダウンタウン』のクロちゃんのサイコスリラーと『ドキュメンタル』シーズン3の春日のカレーに興奮しました。ケンコバと秋山の回春マッサージコントも最高だった。あと、『フリースタイルダンジョン』の新モンスターFORKのフリースタイルにもいたく感動した。ラッパーのヴァイブスみたいなものはまだよくわからないのですが、FORKのラップは日本語表現としてシンプルに痺れてしまう。声も素敵だし、顔がどことなくヤクルトスワローズの小さなエース石川投手に似ている(年齢も近い)ところも好きです。あとはもうとにかく台風クラブに夢中だ。
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若いバンドかと思っていたら、ほぼ同年代であったことにも勇気づけられた。『初期の台風クラブ』はとにかく曲が良くて、泣けちゃう素晴らしいアルバムだ。

初期の台風クラブ

初期の台風クラブ

あと、早稲田の「アプサラ レストラン&バー」で友人達とバナナリーフ包みのスリランカカレーに舌鼓を打った。写真は人に任せたらまたしても汚物のようだったので自粛。スパイスが混ざりに混ざってとても楽しい食事でした。



さて、とりあえず先週の木曜日くらいから振り返りたい。仕事後に三鷹の劇場でままごと『わたしの星』を観る。会場に若い人が多い。キャストもスタッフも高校生。目に見える蒼さが迸っていて、素晴らしい公演でした。劇中でキャストが口ロロの「COSMIC DANCE」(HALCALIをボーカルに迎えた楽曲)を歌い踊るのだけども、こんなにいい曲だったのか・・・と新鮮な気持ちになりました。キャストはみんな魅力的でしたが、中でもヒビナラの不思議な声質と、サヤハの演技の巧さが、特別印象に残っています。ご飯を食べる時間がないので、開演前に最寄りのローソンでからあげクンを買って食べた。”からあげクン”というネーミングは、やはり植田まさしの『かりあげクン』に由来するのだろうか。
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そのキャッチ―なネーミングと発売から30年というロングセラーっぷりに比べて、からあげクンというキャラクターはまったく確立されていない。なんせ、その姿も揚がってもいないただのニワトリだ。公式HPをチェックしてみたら、「からあげクンは鶏ではなく妖精なのです」とか書いてあって、「ダメだこりゃ」と声が出ました。最近、さくらももこのエッセイを読み直している。

もものかんづめ (集英社文庫)

もものかんづめ (集英社文庫)

やはり初期の3作は抜群のおもしろさだ。ただの緩いエッセイと思いきや、読んでいて不安になるような常識への揺さぶりもある。文体も自由自在に使い分けていて、天才の所業だ。さくらももこよしもとばななと一緒に健康センターに週2ペースで通い、サウナ→水風呂→薬湯というルーティンにハマっているという描写があって興奮した。



金曜日。職場の送別会だった。神宮球場のチケットを買ってあったのだけども、送別会を欠席するのはさすがに心苦しかったので、諦めた。そもそも今シーズンのヤクルトの試合を観ていてもちっともおもしろくはないのだけども、どこかで最後に1試合駆け付け、3年間の任期を務めた真中監督の雄姿を見届けたいと思っている。次の監督は高津が有力なのだろうけども、2軍監督として若手をいい感じに育てている最中であるからして、高津までの繋ぎといっては失礼だが、古田、宮本、岩村あたりにお願いするわけにはいかぬものか。理想は宮本にビシビシと鍛えてもらうことだろう。もしくは、青木宣親にアメリカから帰ってきてもらって、チームの雰囲気を変えて欲しい。それくらいに今のヤクルトは堕落している。帰宅してNetflixで『マスター・オブ・ゼロ』のシーズン2を最後まで観終える。うぅ・・・むちゃくちゃハートにきた。これは2017年度のNo.1だ。まじであの素晴らしきシーズン1より良いではないか。
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すっかりアジズ・アンサリの大ファンになってしまい、トークライブなども食い入るように観漁った。かの星野源もファンらしい。ここ最近の星野源のマイノリティに向ける眼差しは、確かにアジズの放つメッセージと共鳴している。早くシーズン2の感想をまとめたいが、絶賛スランプ中である。



土曜日。起きるやいなや、今週の『ひよっこ』をまとめて観た。完全に物語が停滞している。そのことには岡田恵和も自覚的であるようで、やたらとそのことを劇中のキャラクターにメタ的に自己言及させている。ここにきて、ツイッギーコンテストとかのめり込めないぞ。どうやって物語が結ばれていくのか想像もつかないので、とても楽しみだ。昼過ぎに知人の赤ちゃんに会いに出かけた。この前会った時は生後1ヵ月で、現在は3ヵ月。ムッチリと赤子の匂いを発していて、かわいくて仕方がないことだった。日テレの『24時間テレビ』のランナーがブルゾンちえみだ、と盛り上がっていた。この時期になると必ず「なんで、24時間テレビでマラソンするの?」みたいな意見をよく見かけるのだけども、疑問の意味がよくわからない。理由がなければ、頑張っている人の頑張りはなかったことになるのか。むしろ、そういった想像力のない人達の為に、マラソンというわかりやすい形で、”がんばり”を可視化しているのでは。別に24時間テレビが好きなわけではないのだけども。むしろ裏のテレビ東京でやっていた『ゴッドタン』のゴールデン3時間スペシャル、楽しかったな。実質、『ゴッドタン』×『キングちゃん』だった。事前に公開された佐久間プロデューサーのインタビューも勇気づけられる内容だった。
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僕、Googleカレンダーに2ヶ月先ぐらいまで「テレビを見る時間」とか入れてるんです。本を読むのは「B」って書いて予定を抑えたり、映画の公開時期も全部調べて予定に入れてます。予定がかぶると、調整くんみたいなやつでふるいにかけて、いける日を決めて(笑)。

という発言!ポップカルチャーラヴァーの先輩の飽くなき姿勢に痺れまくりました。



日曜日。お昼に貰い物の稲庭うどんを茹でて食べた。掃除と洗濯をして、『KEYABINGO』を観ていたら、あっという間に夕方。自転車に乗って、大泉学園のOZスタジオまで赴き、エドガー・ライトの『ベイビー・ドライバー』を観た。
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ようわからんとこも多かったが、カーチェイスシーンに興奮したので、ゲームセンターでマリオカートをプレイしました。『ベイビー・ドライバー』はケビン・スペイシージェイミー・フォックスとやたら豪華だったが、主演の2人のかわいさに尽きる。大泉学園には、ドレッシングでお馴染みのピエトロのレストランがあり、前から気になっていたので入ってみた。
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発祥の地である福岡にはたくさん店舗があるようだが、都内には4店舗しかないらしい。ピザやパスタをメインとしたイタリアンで、美味くも不味くもないが、サラダバーはピエトロドレッシング9種が使い放題。別にピエトロドレッシングもむちゃくちゃ美味いわけではないのだけども、何かこうテンションの上がるものがあります。小さい頃から、イラストのピエトロおじさんのストイックに陽気な感じが好きなのだ。クリーミーという名前のマヨネーズベースのドレッシングが1番美味しかった。帰りにブックオフで古本を数冊買う。『乃木坂工事中』も『欅って、書けない?』(1時間スペシャル!!)も夏休みっぽい企画で最高でした。長濱ねるさんの歌声、ほんと好きだ。なーこちゃんの「恋」もグッときたぞ。



月曜日。最後の夏休みである。カーネーションの『Multimodal Sentiment』をじっくり聞いた。「いつかここで会いましょう」ってすごくラジオで聞きたいナンバーだ。
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グダグダしている内に気づいたらお昼で、慌てて出かける。鶯谷の「サウナセンター大泉」へ。いやー最高。平日の昼は空いていて、サウナも水風呂も基本貸し切り。そして、そのどちらもが都内最高レベルのセッティングなのですから。特にあそこの水風呂の良さは何ものにも代えがたい。攪拌していないのにキリっと14℃である。サウナで熱をまとった状態で水風呂にジッと浮いていると、どこか違う場所に導かれてしまう。外気浴スペースはないのだけども、開け放たれドアから入って来るそよ風が心地よいのだよな。3セットこなして、食堂で生姜焼き定食。あまり美味くないけど、サウナ後なので、充分満足できる。休憩室で備え付け本棚から『BECK』を抜き取って読み耽った。

グレイトフル・サウンドとアメリカツアーという1番面白いとこだけつまみ読んだ。サク転校前夜、コユキとサクが名残を惜しみながら雪の中を「寒ぃー」とだけ言いながら歩くシーンが好きなのだ。『BECK』が好き過ぎて、テンポの遅い楽曲を聞くと、いつも心の中の平くんが「速く叩けるだけじゃ意味ないぞ、スローなグルーヴも抑えとかないとな」と囁きます。私はドラマ―じゃないのに。映画『BECK』で千葉役が桐谷健太だったの、あまりにハマり過ぎていて、いつ思い出しても笑顔になってしまう。締めにもう3セットほどサウナ→水風呂を決め、ととのい果てて退館。帰りに池袋の西武で「津多屋」のお弁当を買った。8月限定弁当として、「キーマカレー幕の内弁当」なるものが売っていて色めきたった。



火曜日。仕事が溜まっていて忙しい。帰り道に先週の『オードリーのオールナイトニッポン』を聞いた。スペシャルウィークでゲストは松本明子。むちゃくちゃ楽しそうで、幸せな気持ちになった。1番むちゃくちゃやっていた頃の『電波少年』って受験勉強をしていたあまり観られていないので、松本明子の武勇伝には新鮮に驚いてしまう。9月にオードリーがケイダッシュステージの若手とライブをするらしい。むちゃくちゃ行きたいのだけども、坂元裕二の朗読劇の公演日程とかぶっている。ケイダッシュの若手というと、ヤ―レンズ、サツマカワRPG、ねじ、ますおチョップあたりしか観たことがないけども、それだけでも充分なメンツじゃないか。帰宅して、Netflixで『ボージャック・ホースマン』を観始めた。おもしろいなぁ。観ている内にどんどんボージャックのことが好きになってくる。ブックオフで購入した『うたう槇原敬之』というインタビュー本がなかなかおもしろかった。

うたう槇原敬之

うたう槇原敬之

逮捕後の話もたくさんしていて、留置所では色んなタイプの人とたくさん話をしたらしい。歌をせがまれ、素っ裸でお風呂掃除をしている際に、山下達郎の「ヘロン」を歌ってあげた、というエピソードが実に味わい深かった。泣かないで ヘロン 雨を呼ばないで。自分の曲を歌うのは抵抗があったのだろうか。

ままごと『わたしの星』

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私たちはまだ1人じゃない

という劇中での台詞がいたく感動的であった。今作における個性豊かなキャラクター達は、柴幸男がそれぞれのキャストの資質を見極め、あて書きしたものだという。そんな風に、”固有の個性の輝き”のようなもの書き分けながらも、一方では、限定された青春という季節において、彼らは「未分化状態の存在である」としているわけだ。

じゃあ、グーパーしてわかれよう
そうしよう そうしよう
グーパーでわかれましょ、しょ、しょ
いや、これわかれないよ!

行方不明のスピカを捜索しようとする際に登場する、何気ないようでいて、とても印象的なシーン。未分化状態の彼らは、グーチョキパーなどでは簡単にはわかれないのである。そして、今回の再演では削られてしまったが、初演の戯曲には、その「未分化状態」を見事に映像化したシーンが存在する。気持ちを交感し、抱擁するスピカとナナホ。メンバーはその様子に戸惑いつつも、「暑い暑い」「意味わかんない」などと茶化ながら、1人ずつその抱擁に加わっていく。文字どおり「一同がひとつになる」のだ。今回の再演では、代わりに前述の「私たちはまだ1人じゃない」という台詞が登場する。そして、舞台を海辺の学校に変更し、全てが波音に溶けていくような感触を持ち込んでいる。素晴らしいのは、彼女たち10人が決して”仲良しグループ”としての共同体ではなく、何となく否が応に結びつけられてしまった”私たち”である、という点だろう。過疎化した島の学校であろうと、全校生徒が10しかいなかろうと、誰もが諍いなく肩を組むなんていうユートピアのようなことはありえず、他人はどこまでも他人で、時には激しくぶつかりあう。こういったリアリティが、火星移住、シャトルロケットといったSF的跳躍を根本から支えている。


そして、この戯曲の凄さは、「未分化状態の私たちはいとも簡単に代替可能な存在である」という、ある意味においては残酷な真理をつきつけている点にあるだろう。まず、地球と火星という二つの星が代替可能なものとして描かれている。まもなく住めなくなってしまうらしい地球からは、ほとんどの人が火星に移住してしまっている。これまた初演の戯曲から削られたパートだが、火星にはなんと所沢も町田も武蔵小杉も戸越銀座もあるらしい。つまり、火星は少しずつ地球にすり替わっているのである。初演からの大きな変更点として、この公演では、スピカとヒカリという主要キャラクターが1人の役者によって演じ分けられている。「スピカとヒカリは文字通り同一人物である」と錯覚してくれと言わんばかりである。突如として火星に移住してしまうスピカと、入れ替わりに火星から転校してきたヒカリ。文化祭の出し物であるミュージカルにおいて主役を任されていたスピカの消失に慌てる一同であったが、ヒカリが代役を果たすことで事なきをえてしまう。スピカとナナホもまた全く異なる性格を有したキャラクターであるのだが、互いにコンプレックスを抱きながら、同一視してしまう存在だ。「スピカ」という夜空に青白く輝く星が、”双子星”と呼ばれる連星系であることもその証左であろう。スピカはナナホでもいいし、ヒカリはスピカでもいい。いや、かけがえのない存在であるはずの私たちは、誰とだって代替可能なのだ。しかし、それはちっとも嘆くべきことではない。誰とでも代替可能であるからこそ、私たちは誰ともでも簡単に結びつくことができる。


いつも笑っています
でもいつも楽しいわけじゃないよ
もともとこういう顔です

楽しいわけじゃないのに楽しそうと思われるタイちゃん。何でもできる親友にコンプレックスを抱くヒナコ、いつもまとめ役を押し付けられてしまうヒビラナ、好きな子がかぶってしまったケンジとジュン、家族を切り離せないトウコ、同性の親友を好きになってしまうイオ・・・・矢継ぎ早に浮き彫りになっていく、彼女達の抱えるありきたりで切実な問題。それらはありきたりであるからこそ、誰の問題とも代替可能で、誰の心とも強く結びつく。そして、この代替可能であるという質感は、これから先繰り返しこの戯曲を演じていくであろう高校生と結びつき、それを見つめる観客とも結びつく。連綿と続く青春という時間。私たちはあの頃、確かに1人ではなかった。笑ったりふざけあったりしながら、クルクルと回転していた。そんなことを思い出させてくれる、極めて美しい1作だ。



<余談>
素晴らしい。本当に素晴らしかったのだけども、戯曲としての完成度は初演に譲るようにも思う。メタ構造からはじまり、モチーフが混在し過ぎていて、ちょっとわかりづらいような気がしないでもなかった。火星への移住という”生”への希望に満ちた行動をするスピカだが、地球に残される者にとってはその消失は”死“である。ヒカリもまた死に場所を求めて地球にやってきたわけだが、地球の高校生らにとってはその実存は”生”。このような入れ子構造をもったスピカとヒカリというキャラクターを1人が演じ分けるというのは、正直わかりづらい。舞台美術全体がカセットテープを模し、若者らのダンスで巻き戻しや一時停止を重ねながら、「起こらなかったけども、ありえたかもしれない時間」を炙り出していくという演出もまた、実に感動的なのだが、時間軸の複雑な展開が鑑賞のハードルをやや上げていたような。とは言え、HNKのテレビドラマ『中学生日記』にSFの雫を一滴垂らしたような、潔癖でハートウォームな柴幸男の戯曲はやはり唯一無二。加えて、若きキャストの瑞々しさの前ではグウの音も出まい。繰り返し、繰り返し上演され、グルグルと円環運動を紡いでいって欲しい戯曲である。