青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

堀北真希の引退に寄せて~東京メトロ広告における堀北~


海鮮丼を食べようとしている彼女の写真に無性に惹かれてしまったのだ。シリーズで続いている東京メトロの広告である。これまで堀北真希という女優にさほど興味は抱いていなかったのだけど、今や彼女こそが芸能界における最後の聖域なのでは、と盛り上がっている。笑顔ではないのだけども、無表情でもなく、ただカメラ(=他者)の存在は確かに意識している、といった感じの何とも言えない表情がいい。彼女はそのカメラを構えた人間に対してそれとなく好意を抱いているのだけど、それを器用に表現しきれていない。というような物語が浮かんでくる深みのある表情だ。しかし、この表情は"広告"として考えると、どうなのだろう。同僚と思われる隣席の人の満面の笑みと対比してみると、堀北真希の異様な質感が伝わりやすいのではないだろうか。普通は臨席の笑顔が正しい(でも"普通"って何?)。しかし、何にせよ私はこの表情で、東京メトロ一連の広告シリーズの虜になってしまったのだ。

バッティングセンターでスイングする堀北などは名作の一つに数えていいだろう。野球の事はよくわからない。でも、小さい頃にお父さんがテレビでナイター中継を観ながら谷繁選手のリードを褒めていたのが妙に印象に残っていて、その名残なのか、谷繁はとうの昔に中日ドラゴンズに移籍しているというのに*1、何となく横浜ベイスターズを応援している。試合の結果や順位を気にしたことはないけども、優勝したという話は聞かないので、あまり強くはないチームなのだろうだな、とは感じていて、そこも少し気にいっている。そんな堀北。明日は絶対にホームランだ。

畔に佇む堀北も、また実にいい堀北である。友人と思われる女性たちと視線が全く交差していない。この人達は何が一体そんなに楽しいのだろうか。よくわからないけど、とりあえず笑っておこう。そういう堀北。もしくは、本当はもう存在していない、という”幽霊”としての堀北に想いを馳せるのもいいかもしれない。ちなみに、動画バージョンにはしっかりとストーリーが存在しており、こちらの妄想が介入する余地がないのでダメだ。仕事で失敗した堀北に、ランチに海鮮丼を奢ってくれるイケメンの上司などにはクソを喰わしておけばいい。待望の最新作はBBQの堀北だ。

正直、堀北にはBBQなんぞには参加して欲しくない。堀北は、人当たりが悪いとは言われないまでも、心を許せる友達は実は1人もいない。そうあって欲しい。

みんなといるのにいつも1人

これが東京メトロにおける堀北真希の魅力ではないだろうか。都市生活者の孤独を体現する堀北。このBBQ編もよく観てみれば、笑顔にはどうしたって陰りがあり、あまり楽しそうではない。誰とも交われていない、けど確かにそこにくっきりと存在する堀北。やはり信頼できるな、と僕は毎朝を堀北で通り過ぎて行くのです。



堀北真希の芸能界引退の報を受け、4年前に書いて、少し気に入っていた記事をリテイクした。『野ブタ。をプロデュース』(2005)など、いくつかの素晴らしい映像作品もあるわけですが、そのキャリアは質としてあまり恵まれたものではない。そう考えると、やはりこの東京メトロ広告が彼女の資質を最も体現した仕事のように思う。引退は少し寂しい。しかし、その幕の引き方すらどこまでも、儚く物語的で、グッときてしまった。山本耕史の前髪に光あれ。

*1:2017年現在はドラゴンズの監督を経て辞任までしているという時の流れ

デミアン・チャゼル『ラ・ラ・ランド』

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映画館でスクリーンの前に立って客席を見渡すミア(エマ・ストーン)のモラル(ひいてはチャゼルの映画愛)を責めたてるのは簡単なわけだけども、それよりも映画の光を文字通り身体に浴びたミアが、上映が中断された『理由なき反抗』のシーンを引き継ぎ、天文台に登っていくという演出のひらめきを支持したい気持ちが強い。ミュージカル映画、もしくはアメリカ映画の復興と未来を俺が引き受ける、というのを最高にロマンチックにやってのけたチャゼルの映画愛は当然ほんものだ。


期待値が上がりきってしまっていた分、その稚拙なあらすじ運びには驚いてしまったのも事実(ミュージカルシーンも、もっと良くてもいいはず、と思う)。しかし、ライアン・ゴズリングエマ・ストーンの組み合わせがとびきり好きだからか何なのか、とにかく今作の肩を持ちたい気持ちに駆られてしまう。物語は確かに整合さに欠く。しかし、そういった”律”からの解放が故に、この映画は”夢”のようなヴィヴィットな質感を手に入れているのだ、と納得することにしよう。『ラ・ラ・ランド』は夢追い人が”夢”(=ミュージカルシーン)を見る映画なのだから。とは言え、ミアというキャラクターへの「こいつ、何言ってんだ」感は最後まで拭えないのだけども・・・


ジャズやポップミュージックに対するチャゼルの見解というか態度に、どうしても頭にきてしまうという人がいるのも理解できる。果たして彼は本当に音楽が好きなのだろうか。しかし、ミュージカル映画であるのだから、当然なのだけども、『ラ・ラ・ランド』はやはり”音”の映画である。“音”が離れていく2人を何度も出会わせていく。セバスチャン(ライアン・ゴズリング)の奏でるピアノの音色が、ア・フロック・オブ・シーガルズ「I RUN」が、もしくは独特な固有性を纏ったクラクションの鳴らし方が。とりわけクラクションの音色の3度の反復(とその感情の差異)は涙を流すのに値する情感が込められているように思う。


とりわけ素晴らしいのはラストシーンだろう。蛇足という意見を多く見かけたけれども、あれがあるからこそ、それまでの粗が全部チャラになるというものである。オープニングで映されたLAの高速道路の気が滅入るほどの渋滞。ミュージカルシーンによって提示されるのだけども、あの渋滞を作り上げているのはLAで夢を追いかける人々だ。その中にミアとセバスチャンも紛れている。あの場にいるのだから、オープニングの見せ場であるからこそ、スターであるライアン・ゴズリングエマ・ストーンにカメラを寄せたい、という欲望をグッと抑制して、あくまでミアとセバスチャンはモブの中の1人なのだ、という態度を貫いたのには感動してしまった。ラストシーンにおいては、ハリウッドスターという夢を叶えたミアが、渋滞する高速道路を降りる。進路変更してみせる。そこでセバスチャンのピアノの音色と再会し、2人が”選ぶかもしれなかった”平行世界が展開されていく。そこではハリウッドスターの夢も、ジャズバーの夢も叶わなかったかもしれない。しかし、そこではそれに勝るとも劣らぬ確かな幸せが具現化されている。あの映像は、志半ばで高速を降りた多くの夢破れた者達の傷を癒し、それの存在を肯定している。そして、同時に、チャゼルの”愛”に対する認識が提示されていると言える。それが、小沢健二の19年ぶりのニューシングル「流動体について」

流動体について

流動体について

とあまりにも見事なリンクを見せている、というのはすでにご存知の事でしょう。

誓いは消えかけてはないか?
深い愛を抱けているか

無限の海は広く深く でもそれほどの怖さはない
人気のない路地に確かな約束が見えるよ

という「流動体について」のラインは確かに、この映画における2人の「一生愛している」という言葉を見事に補完してしまう。破れてしまった恋だとしても、かつて誰かと交わした"アイラブユー"は、消えることなく、今も貴方の未来を照らしている。そして、それは暗闇を進む糧となるだろう。「無駄なものなんて1つもない」と言い切ってしまえば、もしかしたら、ひどく陳腐に響くかもしれない。しかし、この『ラ・ラ・ランド』と小沢健二の「流動体について」という楽曲には、もしかしたら世界は本当にそういう風にできているかもしれない、と思わせてくれる熱量が渦巻いている。そして、それは”生きることを諦めない強さ”を我々に与えてくれるのだ。

最近のこと(2017/02/17~)

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森下くるみさんは知り合いですか?

携帯のアプリが尋ねてくる。いいえ、違います。まったく。森下くるみと知り合いの私というのは、どれほどのゾーンをまたいだ先の平行世界にいるのだろう。いいなぁ、森下くるみ豆乳鍋とかつつきたいな。そして「キング・クリムゾンはいいよね、王様だもんね」なんてインテリジェンスに富んだ会話をするのだ。しかし、なんでそんな通知が来たのか、と調べてみたら、中学1年生の時に後ろの席だった友人がどういう経緯か知らないが、森下くるみと友達になったからのようでした。むかつく。どっちかと言えば『うぶ』(1998年のデビュー作)だったのはあいつよりも私のほうではないか!



金曜日。特に予定もないのだけど、有給休暇消化で休日。ダラダラと二度寝、三度寝を楽しむ。「サンドネ?メキシコの地名か何かかと思いましたね」という『最高の離婚』の台詞は今思い出しても素晴らしい。瑛太坂元裕二の才能をどこまでも引き出す役者だ。脚本家に台詞を書かせるのは役者だな、と思ってしまう。天気がいいので洗濯をする。風がとてつもなく強くて、シャツ達が旅立っていかないか心配だ。しかし、ここは心を鬼にして、戦場に送り出した。かわいい子には旅させよ、だ。本日の最高気温は19℃、この日の強風は春一番だったようだ。春一番って聞くと、「そうなのか、元気ですか」と当たり前のように思ってしまうけど、どういう意味で、どういう定義で使われている言葉なのかをきちんと把握していないな。いつだかに買ってずっと残っていた「サッポロ一番」のカレーラーメンを作って食べて、昼過ぎに新橋駅へ。新橋、まったく土地勘のない場所。東京育ちだけども、人生で5回も来てない気がする。所在ないので、そそくさと「オアシスサウナ アスティル」へ。都内指折りのサウナ施設と名高いアスティルに、平日休みを利用して初入館というわけです。しかし、驚いた。サラリーマンのオアシスとは聞いていたが、平日の昼過ぎでもこんなにもサラリーマン風のお客で溢れているとは。机にかじりつきの職種の身としては外回りの人はこんな息抜きをこっそりと行っているのか、と少し恨めしく思った。さて、アスティルなのですが、サウナ、水風呂ともにコンディションばっちりで、大変気持ちいい。サウナの自動ロウリュウも楽しい。しかし、いくらなんでも混みすぎで、サウナ室が常にパンパン。おじさん同士が裸でジッと身を寄せ合うのはブルースが過ぎる。従業員がコマ目に清掃しているが、それもで汗は回収しきれていなくて、サウナ内は全体的にすえた匂いが充満していた。これは嫌ですねー。名物というポカポカなテルマベットは最高。雲の上で寝ているよう。しかし、こちらも2台しかないため、人気過ぎてほとんど空いてない。レストランも仮眠室も、何とも言えぬ退廃の空気がすごくて、気持ちが下がってしまった。よほどのことがないと再訪はなさそうだ。帰りしな「ポケモンGO」についに新しいポケモンが実装されたというので、ひさしぶりに少しやってみる。見たことないポケモンが画面に現れるとやはりアドレナリンが出てしまう。あぁ、2016年の夏は本当に楽しかったな。金・銀ポケモンはかわいいけのだけども、初代に比べるとどこかフックに欠けるデザインだなーと思ってしまうのは、単に思い入れの差でしょうか。スーパーでキムチとインゲン豆とモナ王(コーヒーアイスのやつが美味い)を買って帰り、袋入りの冷麺に載せて食べた。2月なのに冷麺とモナ王、そういう気候だった。



土曜日。家でのんびり過ごした。ここぞとばかりに『ゲーム・オブ・スローンズ』を観漁る。いやー本当に面白すぎるぜ!!これを映画ではなくドラマで制作してくれたのには感謝しかない。シオンが往年のルーク・スカイウォーカーにそっくりな気がする。
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いかにもダークサイトに堕ちそうなやつだ。ブランは欅坂46守屋茜さんに似ている。断然、ロブと童貞ジョン・スノウ派なのですけど、1番好きなのはやはりインプです。『ゲーム・オブ・スローンズ』のためだけにHuluに入会したって損はないだろう。Huluは『NOGIBINGO』『KEYABINGO』『有吉の壁』『内村てらす』あたりも観られるしね。NetflixとHuluのどちらか一択ならば、今のところはNetflixに軍配が上がりますが、『3年B組金八先生』あたりのコンテンツがHuluに配信されてくれれば、寝返ります。でもそこにはジャニーズ事務所という壁があるのだよな。これを機に、視聴機会がかなり限られている山田太一倉本聰向田邦子の作品とかをネットに開放してくれれば、これからの脚本家とかがとてつもなく花開いていくのでは。急に思い立ってNetflixフィンチャーの『ソーシャル・ネットワーク

を観直して、震えた。完璧な神話映画だ。自転車に乗って、古着屋さんを少し巡る。スーツ用に春めいたベージュかブラウンのコートが欲しかったのだけども、なかなかちょうどいいものは見つからないものです。帰宅すると、アメリカからフランク・オーシャン『Blond』のLPとCDが届いていた。
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完全に忘れていたので、どこか送り物のような感触で大変うれしいものでした。物として超絶かっこいいので色んな角度から眺めた。夜は出前のお寿司を食べながら、『水曜どうでしょう』のヨーロッパ横断を観た。ミスターが眠っている隙に、古城街道に進路変更しちゃうところ好きだな。『ゴッドタン』に出ていたノリが悪いアイドル本郷杏奈さんがまんまとかわいい。売れそうである。



日曜日。実家に赴き、部屋の荷物の整理をした。棚の奥に封じ込められていた思い出の残骸が続々と姿を現す。レゴブロック、『ドラゴンボール』のカードダス、ガンプラミニ四駆、ビーダマン、モーニング娘。グッズ、GUNS N' ROSESのライブビデオ、長瀬愛ファン感謝祭、ボロボロのフレッドペリーのジャージetc・・・名残惜しいがええい全部捨ててしまおう。くるりだの中村一義だのNUMBER GIRLだのBUMP OF CHICKENだのと汚い字でラベリングされたビデオ達は、スペシャやMTVを録画したものだろうか。み、観たい。音楽や映画の雑誌も大量だ。うう、何冊かの『クイックジャパン』『SNOOZER』『JAPAN』などは思い入れが強すぎて、捨てがたいものだ。中高時代、『レコードコレクターズ』『ミュージックマガジン』『BUZZ』『CUT』『H』『SIGHT』『クロスビート』『BURRN!』などとにかく片っ端から雑誌を古本で買い漁っていたようで、たぶん自分の文法の基盤はやっぱり音楽雑誌なのだろう。そして、一人暮らしを始める時に、選抜総選挙でふるいをかけた漫画たち。全部引き取りたかったのだけども、スペースが足りないので、選抜落ちした面々を再度復活選挙。吉田秋人『BANANA FISH』、大友克洋AKIRA』、岩明均寄生獣』、あだち充『H2』、ハロルド作石BECK』などが繰り上げ当選しました。浦沢直樹井上雄彦は泣く泣く全落ち。持ってきても多分読まないしなぁ。あと岡崎京子のたいしたことない作品とかどうしようか超悩む。



月曜日。大雨に降られる。月曜日はなぜか決まって豚バラ肉と白菜ともやしの鍋を食べている。鍋をつつきながら、小沢健二と大山ナタリーさんの公開チャットみたいのを眺めた。いきなりシングル発売と朝日新聞広告と『ミュージックステーション』出演、そして岡崎京子という言霊に、ぶち上がってしまった。小沢健二と芸能界のコネクションはなぜに健在なのか。その後の公開チャットはあまりにグルーヴしない対話にダレてしまい(小沢健二が自由すぎる)、途中で離脱。あとでログをザッと眺めた。お風呂で池辺葵『雑草たちよ大志を抱け』を読み、涙する。
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これは素晴らしいぞ。1冊で完結してしまうのが惜しいほどに魅力的なキャラクターばかりだった。長嶋有の『パラレル』

パラレル (文春文庫)

パラレル (文春文庫)

を読み終える。いいシーンもたくさんあるのだけども、これはあまり好きではなかった。なんでこんなに村上春樹オマージュな感じなんだ。勝田文『マリーマリーマリー』4巻読む。どこまでもかわいい絵と話だ。『万年B組ヒムケン先生』おもしろいなー。ナレーション台本とかも全部凝っている。風が強くてなかなか寝付けなかった。もしくはオザケン祭りに興奮していたのか。寝付けないので、ニール・ヤング『Zuma』
ZUMA

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を聞いて「ギターの音色泣けるなー」とかブツブツ言っていた。



火曜日。1日中ソワソワしていた。だって小沢健二の19年ぶりのニューシングルと『カルテット』の放送日なんですもの。「ある光」や「春にして君を想う」などを聞きながら通勤して、コンビニで朝日新聞を買って、始業前のオフィスで珈琲を飲みながら読んだ。まさかこんな環境で小沢健二の新しい表現に触れる時が来るとは。しかし、小沢健二の文章は素晴らしいな。たまに食べログとか読んでいても、オザケン憧れ文体な人いて、「僕が思うのは、○○は××ということだ」とかいってカレーやらラーメンについて語ってて、笑っちゃうんだけども、憧れられるのは素敵なことである。つーか、すごいですね、朝日のあれは。何気ないエッセイが積み重なっていくことで、徐々に魔術的に世界の”ありかた”みたいなものが浮かび上がってくる構造。仕事を終えて、タワレコでシングルもゲット。池袋店は案の定、あまり盛り上がっていなかったので、どうせならHMVで買えばよかった(レシートに「LIFE IS COMIN’BACK! この時を待ってました!」と打たれていたらしい)。帰宅して、ご飯食べて、お風呂入って、『カルテット』6話に備える。松たか子宮藤官九郎、素晴らしい。クドカンは夫やらせたら天下一品。マイベスト夫は鈴木卓爾ゲゲゲの女房

ゲゲゲの女房 [DVD]

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の水木さん役です。ときにクドカンファンの子猫ちゃんたちは、いまだに彼を”くんく”と呼んでいるのだろうか。ところで、あんなにDVDたくさん持っているのに、人生のベスト1はレンタルなの不思議ですよね。まぁ『牯嶺街少年殺人事件』みたいな映画がベスト1だったら、確かに借りてこざるえないわけですけども。いやはや、6話のラストの展開!思わず「えーーーーー」と声に出してしまいましたよね。有朱ちゃんの飛んでいき方にちょっと笑ってしまったな。別府くんが超好きで、停電に対して「おぉっ」ってリアクションする所などには思わず萌えてしまった。最近「ですよねー」って言ってくれないので寂しい。あと、猿は軽井沢にむちゃくちゃいます。人間の食べ物の味を覚えた猿は山を下りて漁りに来るらしいです。私は昔、家の窓を開けて侵入する猿を軽井沢で観ました。こえー。



水曜日。『カルテット』6話の感想が書ける気がしなくて、ずっとモヤモヤしていた。仕事後に、頭をサッパリさせようと、行きつけのサウナへ。ヤクザ御用達のこの銭湯は、行けば必ず2~3人は刺青の男がいる。坊主頭に背中一面に派手な暖色の刺青というゴリゴリなおやっさんと湯船に浸かっていると、小さい男の子とその父親がやってきた。

こども「ねーなんで絵描いてあるの?」
父親「えっ・・・」

なんたるキラーパス。マンガだ。いや、初期の『クレヨンしんちゃん』にこんなシーンあったはずだ。私は隣で「マジかっ」と慌てていたのですが、おやっさんは「そうだよな、不思議だよな」と高らかに笑っていた。大人な対応だ。

こども「ねーなんで?」
父親「うーん、おじさんに聞いてごらん」

おやっさんの大人な対応に気を良くしたのか、どうかしているお父さんのふり。しかし、おやっさんは大人だ。

こども「なんで絵が描いてあるんですか?」
おやっさん「俺はね、絵の先生なんだ」

い、イカすぜ(意味わかんないけど)。湯船から出る際、父親は「すいませんでした」と平謝りだったのけど、おやっさんは「いや、ぜんぜん」とこれまたクールに返していた。前半マンガで、後半浄瑠璃やん、と思った。さらば青春の光、早く売れてくれ。サウナ4セットですっかりととのったところで、帰宅。『カルテット』の録画を観ながら、何となく感じていたものを言語化していく作業に勤しむ。書けるだろうか、というプレッシャーでお腹が痛くなってしまった。



木曜日。仕事終わりにポレポレ東中野で小森はるか『息の跡』を観る。
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素晴らしかった!何を観ているのかわからなくなるのだけども、とにかく素晴らしい声と音の詰まったドキュメンタリーだ。”佐藤さん”というあまりにも魅力的な人間の虜になってしまったな。なんて哀しくて楽しい人なんだろう。しかし、今年はスクリーンで観る映画全てが傑作なのだけども、大豊作の年なのでは。何でも観る、という気概がなくなって厳選して観ているからなだけかもしれないけども。駅前にいたケバブ屋さんで「おつまみケバブ」を買って帰り、録画してあった『水曜日のダウンタウン』『いろはに千鳥』『有田ジェネレーション』を観て食べました。お風呂で長嶋有エロマンガ島の三人』を読む。そして、江本祐介「ライトブルー」MVのメイキング動画が公開された!!
youtu.be
来月の多摩パルテノンでのライブ楽しみだな。ジブリ米林宏昌と西村義明が新たに設立したスタジオポノックの『メアリと魔女の花』の制作発表記者会見の全文読んで思わず泣く。
lineblog.me
宮崎駿の「嬉しい」ってところでもう涙腺崩壊ですね。

躍動する流動体 数学的 美的に炸裂する蜃気楼
彗星のように昇り 起きている君の部屋までも届く

という心持ち。しかし、凄まじいオマージュの嵐。
youtu.be

坂元裕二『カルテット』6話

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カルテットメンバーが一斉に介さない。ほとんどの尺を巻夫婦の回想に費やす異色の6話である。『MOTHER』8話における道木仁美(尾野真千子)の回想、『それでも生きてゆく』7話における三崎文哉(風間俊介)の回想など、この手法は坂元裕二作品においてたまに顔を出す大技である。物語の進行を停滞させてまで語らねばならない過去というのは確かにあるのだ。


おそらくデレク・シアンフランスブルーバレンタイン』(2010)を意識したと思われる、壊れてしまった夫婦の時間のプレイバック。小さな声で喋る者同士が、その聞き取れなさ故に互いの距離を詰めていく、という実に瑞々しい恋の始まりが記録されている。真紀(松たか子)の好きなピエトロ・マスカーニのオペラ『カヴァレリア・ルスティカーナ』が流れ、幹生(宮藤官九郎)のお薦めの詩集に零れた珈琲が染みている。それを拭き取るための布巾を取りに台所に立った2人がキスをする。まさに起こるべくして起こった”キス”というのを見事にワンカットに収める手腕に震える。1話における唐揚げにレモン、平熱の高い人、「愛してるけど好きじゃない」といった挿話がリフレインしてくることで観る者の感情をより刺激することだろう(1話で真紀が涙を流しながら別荘で弾いていた「アヴェ・マリア」は『カヴァレリア・ルスティカーナ』の間奏曲であるらしい)。とりわけ、1話においてマンションに戻る真紀がスーツケースを押しながら食べ歩いていたコロッケが、夫婦の幸せな時間の記憶の象徴であったことには、胸を突かれた。

幹生:あ・・・あのう これ
詩集的なアレなんですけど
真紀:え、巻さんが書いたんですか?
<中略>
幹生:まぁたいしたアレじゃないんだけど

と、代名詞と歯切れ悪さを駆使した坂元裕二お得意の話法が久しぶりに登場したのにも思わず涙腺が緩む(私はこれを勝手に”瑛太話法”と呼んでいる)。

真紀:この人 悪い人?
幹生:あぁ やっ・・・まぁ悪い人とか
   そういう感じじゃないんだけど

という幹生の人生のベストワン映画に巡る会話はまさにこのドラマの本質を象徴していると言えよう。「真紀は夫を殺したのではないか?」というこれまで視聴者の関心をリードしてきた疑惑が解決したのであるから、「真紀は善で、逃げ出した幹生が甲斐性なしの悪」という白黒はっきりした対立構図が最も観やすい形である。しかし、そうはならない。あくまでグレー。妻から逃げ出したばかりか、コンビニ強盗まで起こした幹生という男でさえも、”悪い人”と断定させてはくれない多面性がある。回想の中において、それぞれの”正しさ”と“過ち”が公平に語られていく。唐揚げにレモン問題にしても、幹生が一言指摘すれば済んだ話だ、という意見もあるだろう。しかし、忘れないで欲しいのは、彼らは声の小さな人達なのだ。その声の発されなさが故に、2人はどこまでもすれ違っていく。夫はいつまでも恋人のような関係を望み、妻は家族のような関係を望む。幹生の言葉を借りるのであれば、“欲しかったものがお互い逆さになって”いく。「人生を一緒に歩もう」と誓いあったはずが、気づけば別の道を進み出していた。それはまるで1つの家で2人別々に暮らしているようである。その確かな”分断”が、リビングとキッチンの照明の色合い、もしくは寝室の照明のON/OFFで語れていく演出は映像表現として出色の出来であろう。


であるが、1つの家で別々に暮らす、というのは果たしてそんなにも絶望的なことなのだろうか。前クールの『逃げるは恥だが役に立つ』において、平匡とみくりがとった決断は、まさに”それ”ではなかったか。

生きて行くのは面倒くさいもんなんだと思います
それは1人でも2人でも
どっちにしても面倒くさいなら、2人で一緒に過ごすのもいいんじゃないでしょうか

そして、個人的に坂元裕二の表現の”核”と捉えている『最高の離婚』最終話におけるこの構図。
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絶望的なまでに平行線上にすれ違っていく夫婦が、同じ乗り物で進むということ。「俺、レモン嫌いなんだよね」が発覚したあの飲み会の後、幹生と真紀は、植込みを挟み平行線上に別の道を歩いているようでいて、広い視野で見れば、あれはやはり同じ道のはず。ビールのつまみに柿の種を食べる2人にしても、幹夫が煎餅、真紀がピーナッツ、とどこまでもすれ違いながらも、その2人をしてやっと1つの”柿ピー”なのである(もちろん、割合の少ないピーナッツを遠慮なく食べ続ける真紀の無神経さ、と捉えらることもできるシーンなのだけど)。いや、まず2人の出会いを思い出したい。それは終電後のタクシーの乗り合いであった。職場の同僚を挟んで座る幹生と真紀。空間を分断されながらも、1つの箱に乗り合わせ同じ方向に進む。この構図こそが幹生と真紀という夫婦なのだ。もっと言ってしまえば、この構図を作る為に、同僚は大柄でなくてはならなかったし、さらに普通に撮るのであれば、同僚は助手席に座らせるはず。深読みなどでも何でもなく、意図的に撮られた構図なのだ、ということを声を大にして主張しておきたい。そして、とりわけ感動的であるのは、これらの回想が、夫婦である異なる人間が、異なる場所で、異なる相手に語りながらも、それが当然のことであるかのように、2人の知りえぬ場所で共鳴し、1つの物語として形をなしている点だろう。これこそ幹生と真紀という夫婦の在り方ではないか。



ここからはちょっと疑問というか苦言になるので、読みたくない方は飛ばしてください。6話の演出は坪井敏雄。上に述べてきたように、いくつかの素晴らしいひらめきをもった演出も見られるが、全体的にはこれまで土井裕泰金子文紀が作り上げてきた『カルテット』というドラマの文法をいささか台無しにするようなきらいがある。端的に言って、わかりやすく撮り過ぎであり、”あいまいなもの“を浮かびあがらせんとしてる『カルテット』という作品との相性はいまいちだ。たとえば、幹生の靴についたカラーボールの跡にしても、「そういうの流行ってるんですか?」とすずめ(満島ひかり)が疑問を持つだけで充分であるのに、マンガ喫茶にてカラーボールの実物をクローズアップ、あげくに宅配業者(トミドコロ)に1から10まで説明させてしまう。視線で悟るドラマであった『カルテット』にしてはどう考えてもくどい。寝室に飾られる花を強調してカメラに収め、その花言葉で夫婦の状況を語るなんていう演出はあまりにチープではないだろうか。と言うよりも、画面に映される花を見てすぐさま品種と花言葉が浮かぶ人間などほんの一握りであり、大半の人間はあとになってその意味を知るわけだから、ほとんど意味のない演出だ。宮藤官九郎が脚本を手掛けた『あまちゃん』のロケ地、松たか子がヒロインを務めた『HERO』のロケ地などを使用するという遊びも、首をひねらざるえない。物語に効果をもたらさない、ドラマの外側への寄りかかりは好ましくない。空に上がる凧の高度で幹生の恋心を表現するというのも、あまりに直喩が過ぎる上に、3回も撮るのはやりすぎ(これは脚本なのかもしれませんが)。幹生が惹かれた真紀のミステリアスさを象徴するバイオリンの音色が、

君の選んだ人生(ミチ)は僕(ココ)で良かったのか?なんて分からないけど、、、

と歌われるような安っぽいヒットソングに切り替わっているというのも、バイオリンを奏でるはずの指がハンバーグをこね回している、というのも、決して悪くはないがいささかやりすぎなような気がしてヒヤヒヤしてしまった。土井裕泰金子文紀があまりに充実したショットで語っていたのとは対照的に、カットを割り過ぎるわりに繋ぎが甘く、ビールのグラスを置くコースターの位置がぐちゃぐちゃだったり、キッチンでフライパン殴打のあとの幹生がいきなりベランダにいたり*1、目を凝らせば凝らすほどに混乱を極めた。会社を辞めたはずの幹生の携帯に打ち合わせ予定など仕事関係のLINEがたくさん来ているのもよくわからなかったし、鏡子(もたいまさこ)の見せ場である真紀へのビンタにしても、4話での茶馬子→半田→家森というあの素晴らしいビンタの連鎖のショットの後では、あまりに鈍い。丸々回想という異色回であることを考慮すれば、まぁ悪くはないのかもしれないけども。



さて、6話ラストの怒涛の急展開。これにはもう思わず満島ひかりの『ミュージックポートレイト』での言葉を思わずにはいられない。
hiko1985.hatenablog.com

だいたい7話くらいで坂元さんは・・・ちょっとねぇ
7話くらいでちょっと展開させすぎちゃう
(こんな事言ったら)怒られるけど(笑)

夫さん登場でミステリーパート終了と思いきや、ギアを更に上げて、プロデューサーの予告通りコーエン兄弟『ファーゴ』(1996)的展開に進むのか。有朱(吉岡里帆)の真紀のバイオリン強奪は謎であるし、愛おしそうに頬を寄せていたのも謎。青い金玉の猿(賞金10万円)を家森と一緒になって探していたらしいことから、やはり金銭目的で高額であるバイオリンを売り払うつもりなのか。そうなってくると、同じく愛おしそうにバイオリンを見つめていた幹生も怪しい。はたまた真紀に特別な感情があるのか。幹生と有朱は何やら言い争いをしていたような撮り方もされていて(2人は知り合いなのか、そう言われれば大森靖子が演じた”水嶋玲音”というのはどこまでも地下アイドルっぽい)、謎は深まるばかりだ。この物語がどこに連れていってくれるのかさっぱりわかりませんが、私は坂元裕二についていくぞ!

*1:ご指摘頂いたのですが、あの別荘の間取り上可能なようです

池辺葵『雑草たちよ大志を抱け』

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繕い裁つ人』『プリンセスメゾン』の池辺葵が手掛ける最新作は青春群像劇である。主人公に選ばれているのは、クラス(=世界)の中心となってキラめくタイプではない。『雑草たちよ大志を抱け』というタイトルが示すように、誰にも気づかれることなく、無邪気に踏みにじられてしまうようなか弱き存在。あまり好きな言葉ではないが、”スクールカースト”というやつの下の方にいるであろう女学生たちである。地味な彼女たちの最大の楽しみは、昼休みに食堂で食べる味付けの濃い親子丼、夕方の『必殺仕事人』の再放送、心酔するアーティストの表現に触れること。そして、身長、体重、太い眉、運動音痴、音痴、体毛etc・・・それぞれが他愛のない、だが切実なコンプレックスに悩み、どこか縮こまって暮らしている。

素直になったら恥かくだけや
私は
鋼鉄のバリアで
自分の心を守るんや

思春期時代の自分をそこに見つけ、思わず抱きしめたくなってしまう人も少なくないのでは。


スクールカーストの下の方(=雑草)という感覚は通学電車において、モブキャラクターがこぞって立っている中、椅子にチョコンと座る面々に重ねられる。また、”見下ろされる”という構図がそのフィーリングを高める。寝坊癖があり母親に寝顔を覗かれているがんちゃん、毎朝がんちゃんを迎えに家の下までやって来るひーちゃん、とびきり背の低いピコ、背中を丸めて歩くたえ子、などなど。そして、マラソンで転倒するピコ、膝を抱えて腕毛を剃る久子さん、地面にひっくり返るセミ、といったイメージも雑草性を高めていると言える。しかし、これはもう池辺葵という作家の色と言っていいと思うのだけども、下の方でくすぶり、本流から外れてしまったような者達を描きながらも、彼や彼女たちはそんな悲劇性に飲み込まれることなく、常に心躍るような(ピコとがんちゃんのスマートフォン越しのダンス!!)前向きさを纏っている。

背すじのばして胸はれ

ちょっとでもましに見えたいなーって
くさったりしないで
かわいく見えるように
せいいっぱい努力してみようって
思ったんだー

人の目を気にせず
一心不乱になれるんは
どうしようもなく
かっこいいっていうんや

まったくをもって素晴らしい。この池辺葵の筆致はもはや木皿泉のそれである。終盤における、合唱コンクールでもって、雑草である彼女たちのか細い”ヴォイス”が連帯し強く結ばれていく。下を向くような冴えない日々が続くかもしれない、でも愛されることだけは決して諦めてくれるなよ、という池辺葵のメッセージが、多くのボーイズ&ガールズに届けばいいと願う。やっと手に入れた愛は、もしかしたら儚い泡のようなものであるかもしれない、しかし、その一瞬のキラメキは永遠のように、貴方を生かし続ける、と語りかけるエピローグは、思わず小沢健二*1の往年のナンバー達を重ねてみたくなる。コマ割りのリリシズム、セリフ廻しの妙、キャラクターの愛らしさ、どれをとっても完全無欠な領域に突入している池辺葵、今後も名作量産に期待であります。



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*1:祝・完全復活!